トロルドハウゲンの婚礼の日

増田朋美

トロルドハルゲンの婚礼の日

トロルドハウゲンの婚礼の日

もうすぐ春だというのに、冬に逆もどりしてしまったような、そんな日であった。暑い日でも寒い日でも、仕事というものは続いているし、学生は勉強をつづけなければならない。最近は、障害のある人であっても、楽しく勉強できるような、そんなサークルが、多く出現しているし、障害があっても

勉強に行けるような施設も多いが、そんな理想的な施設はなかなかないのが現実であった。

今日も蘭のところへ一人の女性客が、刺青をお願いにやってきた。言ってみればリストカットの常習犯というような女性で、どんなに努力をしても、自分の手首を切りたいという衝動を抑えられないので、その対策として、刺青をしてくれという。もし、又リストカットをしてしまいたくなった時に、手首に彫られた花柄を傷つけてはいけないと考え直すようにしたいで、御願いしたいというのだ。今日は仕上げの段階で、もう完成に近づいていた。

「はい。出来ましたよ。饅頭椿ですね。又、色が薄くなったりしたら、手直ししますので、いつでも来てください。」

「ありがとうございました。私が、新しい人生を踏み出す第一歩をつくってくださいました。」

蘭は、最後の針を抜いてそういうと、彼女はうれしそうな顔をした。こういう時に、蘭は、この仕事をやってよかったと思う。

「でも、先生が、椿が縁起が悪いからやめろと言ったのは、びっくりしました。椿の花ってかわいいし、初めは何の事かと思いましたが、先生の説明で納得しましたよ。花ごと落ちるので、打ち首を連想してしまうんですね。」

「ええ、刺青は一生残るものです。着物と違って、縁起の悪いものを、体に入れるわけにはいきません。其れは、お分かりになってくれますね。」

と、蘭は、彼女に言った。

「そういう事も教えて頂いてうれしいです。私、もう二度と、リストカットはしないようにします。」

と、彼女はにこやかに笑う。

「いつまでも、そういう笑顔で生活できたらいいですね。刺青を入れたとしても、手首に饅頭椿を入れただけで、あとは何か変わるわけじゃないですから。まあ、変わるのは個人の意識だけですからね。」

蘭がそういうと、彼女は明るい顔をして、

「大丈夫です。私の二人の親友も、私がリストカットをやめるように、刺青を入れたと言えば喜んでくれると思います。」

というのであった。

「親友?どちらにいらっしゃるんですか?」

蘭が聞くと、

「ええ、十年位前から付き合っている親友の女性が二人いるんです。まあ言ってみれば、私の音楽仲間ですね。一人はバイオリンを弾いて、もう一人は、箏を弾いています。名前は、バイオリンが峰田千代、箏を弾いているのは、望月克子っていうんです。」

「そうだったんですか。いやあ、それは驚きました。あやさんに、そんな素敵なお友達がいたんですね。そういうことでしたら、リストカットなんてしている前に、その彼女たちと楽しくやってください。そういうひとがいるんだったら、あやさんはきっと立ち直ることができますよ。」

蘭はにこやかに笑って、その女性、渡部あやさんに言った。

「ありがとうございます。彼女たちの事も大切にします。先生、今日の施術料はおいくらでしょうか?」

「ああ今日は、二時間つきましたので、二万円でお願いします。」

あやは、二万円を蘭に渡した。蘭はそれを受け取って、丁重に領収書を書いて、彼女に渡した。

「じゃあ、色があせたり、薄くなったりしてきましたら、又お電話下さい。どうしても手首などのよく動かすところは、背中などに比べますと、色が薄くなりやすいところでしてね。まあ、ここに姿勢を彫ると、あくまでも宿命的なものになりますね。」

「はい、わかりました。」

あやはにこやかに笑った。

「後の二人の親友にも、これを見せてびっくりさせます。」

「びっくりはしなくてもいいんですけどね。其れより、あなたがリストカットを辞めるという方向にもっていかなくちゃ。其れが大事なんじゃないですか?」

「あ、ああ、そうでしたよね。ごめんなさい。私ったら、一寸調子に乗りすぎました。」

蘭は、彼女が笑顔になってくれるのが、なによりも大切だと思った。

「まあ、お友達と仲良く、其れから、ご家族とも仲良くやってください。」

「はい、わかりました。饅頭椿、一生大切にします。」

蘭は帰り支度を完了させた彼女に、どうか彼女が幸せになってくれたら、と祈らずにはいられなかった。

「刺青を大事にするということは、同時に自分も大事にするということになります。其れを、頭の中にしっかり入れて、頑張って生きてくださいね。」

「はい!」

あやはうれしそうな顔をして、にこやかに笑って、玄関先から出ていった。

彼女が出て行って、数分後。

「おーい蘭、仕事は、11時までだったよなあ。もう11時過ぎたから、買い物しよう。」

と、インターフォンが五回連続してなって、蘭は杉ちゃんの来たことが分かった。

「ああ、今ちょうど、お客さんをお送りしたところだ。ちょっと汚いけど、入ってくれ。」

と、蘭が言うと、杉ちゃんは、ああありがとうと言って、ガチャンとドアを開けて部屋に入ってきた。

「どうしたの蘭。何だか、変な考え事をしているように見えるけど?」

杉ちゃんに言われて、蘭は、そうかなとだけ言った。

「そうかなじゃないよ。顔に描いてあるよ。なんかすごい心配な客でもいたんじゃないの?」

杉ちゃんに言われて、蘭は、

「杉ちゃんには何を言っても隠しようがないな。今来てくれたお客さん、ピアニストで渡部あやさんっていうんだけどね。彼女、過去に機能不全家族みたいな家に暮らしていたせいで、リストカットをやめられないので、僕に刺青をしてくれというんだが、彼女の家は、こうして彼女を僕のもとに来させたり、音楽演奏活動させたり、結構彼女を自由にさせてるんだよ。それに、なんでも10年以上つきあっている音楽仲間もいるということだ。そんなにだよ。日常生活充実している彼女がだ、なんで、僕のところに刺青なんか入れに来たんだろう。」

と、理由を言った。

「そうだねえ。まあ、人間の住んでいるところっていうのは、現在の家族ばかりじゃないからねえ。」

と、杉ちゃんが言うと、

「そうか。現在の家族ばかりじゃないか。でも、彼女、生年月日と、結婚歴を聞いたところ、もう15年も結婚していて、とうの昔に実家を出ている。彼女が施術している間に話してくれることを聞いても、ご主人は確かに優しそうだし、そりゃ、確かに子供が出来なかったということはあるが、子供がいなくても幸せな夫婦はいっぱいいるじゃないか。」

と蘭は一寸考え込むように言った。

「でもね、子供ができないということで、結構責められて鬱になったという女性もまれじゃないだろうな。」

杉ちゃんが言うと、

「まあ確かにそうだけどさ。彼女は、そういう言葉はいちども漏らしたことがない。其れよりも、リストカットがやめられなくて困っているということばかりだよ。一応、手首に饅頭椿を彫ったので、それを忘れないでいてくれれば、良いんだけどなあ。」

と蘭は、一寸感慨深く言った。

「まあ、蘭の商売はある意味では一期一会だもんな。お客さんの、将来が心配になることだってあるし、一緒に寄り添って解決に導くようなこともしなければならないこともあるよ。人間を扱う仕事だもん、そういうことはだれより強く感じるんだろうね。まあいい、それより今は、ご飯をつくることを考えないと。早く、買い物に行こう。」

杉ちゃんにそういわれて、蘭は、渡部あやさんの事はもう考えないようにしようと思い、杉ちゃんに連れ添って、買い物に言った。

其れから数日後の事である。蘭と杉ちゃんは、静岡市内にある百貨店に、買い物に行った。百貨店は買い物客でごった返している。その外にはステージが設けられていて、何かイベントができるようになっていた。平日は、イベントは開催されていないが、今日は休日だったので、何かやっているらしい。杉ちゃんたちは、ちょっと寄ってみることにした。

「おう、グリーグだぜ。」

ステージから流れてくる音楽は、トロルドハルゲンの婚礼の日だった。あまり日本ではなじみのない音楽であるが、うきうきして楽しくなる音楽のひとつだと思う。

「へえ、不思議な編成だな。バイオリンに箏に電子ピアノか。面白いな。」

ステージの上には三人の女性が、演奏していた。三人とも、いわゆる大正ロマンと言われるような、アンティーク着物と思われる着物を着ている。でも、バイオリニストの着物の裾から、レースがみえてきたので、ちゃんとした着方をしているということではない。

「グリーグの曲で、一番乗りやすい曲だと思う。」

と、杉ちゃんは、ほかの客に交じって、手拍子を打ったりしたが、蘭は、この曲がきれいな曲であるとは思えなかった。どうもグリーグの音楽というのは和声的にきれいではないので、蘭は苦手だった。

もし、和声的にきれいだというのなら、ベートーベンとか、モーツァルトのほうがよほどいい。

やがて、トロルドハルゲンの婚礼の日の演奏は終了した。次の曲は、モーツァルトのロンドニ長調。之であれば、蘭も安心して聞くことができる。

「でも、箏とピアノとバイオリンというバンドは、なかなか面白い編成だ。こりゃ、なんかの雑誌二でも乗りそうな。」

と、杉ちゃんがつぶやく。蘭は、その編成がどこかで聞いたような編成だと思った。誰かが同じようなことを言っていたような、それはどこの誰だっただろうか。

ロンドニ長調で演奏会は終了する予定だったようだ。ありがとうございましたと司会者の声がして、演奏会はお開きになった。ステージの前に立っていた聴衆も少しずつ散っていったのであるが、蘭たちは、人込みに紛れ込むことはできないので、しばらく待っているしかなかった。

「あの、もしかしたら、彫たつ先生ではありませんでしょうか?」

いきなり、聞き覚えのある女性の声でそういわれ、蘭は、後を振り向くと、

「あ、やっぱりそうだ。ほら、こないだ、私の手首に、饅頭椿を入れてくださいましたね。あの時の、渡部あやです。」

と言われたのでまたびっくり。だれだと思ったら、着物を着ていたし、髪形も変えていたのでよくわからなかったけど、彼女は間違いなく渡部あやさんだった。

「先生、約束通り、私はまえむきに生きることに決めました。だからほら、こういうところで演奏をさせてもらっています。」

あやさんは、にこやかに笑った。

「そうなんですか。其れは良かった。これからもそういう明るい生活が続いてくれますことを祈っています。」

と、蘭が言うと、

「あやさん、この車いすの方はどなた?」

とバイオリンを持った女性が、あやさんのほうへやってきた。

「ああ、千代さんにも相談するわね。私の手首に刺青してくれた、彫師の先生。えーと、芸名は彫たつ先生で。」

「はい、伊能蘭と申します。」

と、蘭は急いで言った。

「僕は蘭の親友で影山杉三です。お前さんが、蘭のお客さんの親友か。」

杉ちゃんが横入りするように言うと、

「ええ。峰田千代です。で、こっちにいるのが、お箏を弾いている、」

と言って千代さんと言われたバイオリニストは、近くを通りかかったこと爪をはめている女性を指さした。

「はい、望月克子です。よろしくお願いします。」

とそういわれた彼女はそういって蘭たちに頭を下げる。

「はあ、珍しい。車いすの人間に頭下げるなんて、よほど謙虚な人なんだな。そんなことするはずないのが当たり前なんだけどな。」

と、杉ちゃんが言うと、

「でも、私たちの音楽を聞いてくださったんです。それはちゃんとお礼をしなきゃダメでしょう。」

と、克子さんは言った。

「いやあ、礼なんてしなくていいよ。僕たちは、ただ通りかかっただけなんだから。それで大したことないの。僕たちは、音楽に対して知識があるわけじゃないし。」

杉ちゃんはそういったのであるが、

「いえいえ、ちゃんとトロルドハウゲンの婚礼の日だって、見抜いてくれましたよね。其れはとてもうれしいことです。ありがとうございます。」

と、克子さんが頭をもう一度下げた。

「いえいえ、僕たちは、ただのバカの無駄知識として覚えているだけだよ。まあでもお前さんたちの演奏は、上出来だった。其れは、ちゃんと言っておく。」

「ありがとうございます。」

三人の女性は、杉ちゃんににこやかに礼を言うが、その最も和服が似合っている克子さんという女性が、一寸不服そうな顔をしているのを蘭は気が付いた。何か、悩んでいることでもあるのだろうか。もし、彼女たちが、硬い友情で結ばれているのなら、もっと、開放的な笑顔を見せるところだが。

「まあ、いい音楽聞かせてくれてありがとう。今日は楽しませてもらった。嬉しかったよ。」

「あの、伊能先生でしたっけ。よろしければ、私たちのコンサートが、来週、富士市文化センターであります。よろしかったら、いらしてくれませんか。ぜひ、私たちの演奏を聞いてほしいです。」

と、千代さんがそういって、一枚のチラシを蘭に見せた。

「ありがとうございます。入場料はおいくらでしょうか?」

と、蘭が聞くと、克子さんは無料だと答えた。

「そうですか。じゃあ聞かせてもらおうかな。もうもう一回、トロルドハルゲンの婚礼の日を聞かせてもらうとありがたいです。」

杉ちゃんのほうは、もうすっかり行く気になっているようである。蘭は杉ちゃんがこうなってしまっては、もう行くしかないなと思った。

「会場の都合上、整理券を配布することにしています。よろしかったら、もっていってください。先生に来ていただけるなんてすごくうれしいです。」

と、あやさんに整理券を渡されて、蘭は、一寸内心ではため息をついていたが、でも、せっかくお客さんがまえむきになってくれたのだからという方向性に考え直した。分かりましたと言って、蘭はそれを受け取った。

演奏会は、一週間後に行われる設定であった。演奏会の前日、蘭が、スマートフォンに目をやると、演奏会は、中止というメールが入っている。まあ、最近はやっている変な伝染病のせいかなと蘭は思ったのであるが、ちょうどそこへ買い物にいこうと杉ちゃんがやってきてしまったので、スマートフォンを隠すことができなかった。

「はあ、一体どうしたの?」

杉ちゃんにいわれて、蘭は演奏会が中止になったといった。まあ、流行っている伝染病のせいじゃないの?と杉ちゃんに言うと

「それはどうかな。まあ確かにそれも一理あるが、ほかの事も考えられると思う。なにか内紛でもあったんじゃないのかな。其れに、蘭のお客さんなら、ほかのやつより一寸弱いところがあるということもあるし、蘭が慰めにいった方がいいかもしれない。」

と、杉ちゃんに言われて蘭はそうだよなと考え直した。確かに、客としてやってきた時の彼女、渡部あやさんは、とても精神不安定だったし、こういう事でパニックを起こすことも十分あり得た。

「彼女の住所は知っているから、それでちょっと行ってみようか。」

と、蘭はそう決断した。杉ちゃんも一緒に行くといった。急いでタクシーを頼んで、蘭と杉ちゃんはその中に乗り込む。そして、彼女、渡部あやの住所に急いで行ってみる。

あやの家は、直ぐに見つかった。特に大きなお屋敷でもないし、ひねくれあばら家ということもない。平凡な家である。蘭たちが、インターフォンを押すと、何も反応がない。杉ちゃんがこれはもしかしたらといったので、蘭は急いでドアに手をかけてしまった。すると、玄関のドアは開いていた。杉ちゃんたちは、急いで中に入ると、三人の女性の声が聞こえてくる。

「あたしは、会場を変えてでもやめないでやるべきだと思うわ。変更したことは、メールで注意すればいいだけの事だし。会場側でやらないでくれと言われても、別の会場で、やれるかもしれないわよ。」

と言っているのは、あの邦楽家の望月克子さんだ。声がするのでよくわかった。

「でも、お客さんの誰かがおかしなことになったら、私たちの責任でもあるのだし。」

と、千代さんが言っている声も聞こえてくる。

「申し訳ないわね。あたしのせいで、千代と克子が言い争いをするなんて。」

そんな言葉も聞こえてきた。もしかしたら、三人そろっているんだなということがわかった。

「でも、あたしはやるべきだと思う。こういうときになっても、音楽を求めている人はきっといる。」

強い声でいう克子さんに、

「克子は強いわね。邦楽に行くと、なんでそんな風に、強引な姿勢に変わるものなのかしら。私は、もっとお客さんの事を思うことも必要だと思うわ。」

と、千代さんは言っている。

「克子は、もともと、邦楽というのをやっていて、邦楽は人が来てくれないから、そういう強引なやり方が身についてしまうのかもね。」

「ちょっと待て!」

我慢できなくなった杉ちゃんは、車いすのままで、部屋の中に入ってしまった。この家に段差がないのが、救いというか、奇跡かもしれない。

「邦楽は貧しいからとか、そういう風に差別しちゃだめだ。それは、やってはいけないよ。あんたたち、仲良さそうに見えるけど、そういうわけではないんだろう。ほんとは、違うよなあ?」

杉ちゃんに言われて、二人の女性は黙った。確かにその通りなのかもしれなかった。それぞれ異なった音楽をやってきたものが、一堂に会して、演奏するというのはとても難しいことである。

「でも、あなたたち二人がいてくれるおかげで、彼女、渡部あやさんは、一生懸命やっているんだから、それを忘れないでいてくれますか。あの時の、トロルドハウゲンの婚礼の日は素晴らしい演奏でした。」

蘭は、嫌そうな顔をしている彼女たちと、涙をこぼしている、渡部あやさんの顔を見ながら言った。

「音楽は、喧嘩するためにあるんじゃありません。其れは忘れないでください。」

蘭は、もう一度言った。強気の顔をしている克子、苦虫をかみつぶしたような顔をしている千代、そして、何も言わない渡部あやさん。彼女たちは何を示しているのだろうか?





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

トロルドハウゲンの婚礼の日 増田朋美 @masubuchi4996

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る