先生、あのね――。
飛鳥休暇
もうすぐ話しかけるからね。
先生、あのね――。
うちの学校って絶対に部活に入らないといけないでしょ?
運動部は絶対に嫌だったから、わたしはなんとなく美術部を選んだんだ。
こんなこと言うと先生に怒られちゃうかな。
でも、先生なら、どこ見てるかわからない顔で「そう」と言うだけだよね。
でも、美術部に入って正解だった。
先生は準備室にこもりっきりで、遅くまで残ってても大丈夫だったから。
わたしの家は「フクザツなカテー」ってやつで、あんまり家に居たくなかったから。
でも、毎日遅くまで残ってるもんだから、先生にあの日聞かれたよね。
「早く帰らなくても大丈夫なのか」って。
それでわたしは言ったよね。
「先生、あのね――」
わたしのカテーのジジョーってやつを。
そしたら先生はいつもの顔で「そうか」って言うだけ。
でも、そのあと先生の家に誘ってくれたのはなんでかな?
先生に限って下心ではないだろうし。
ジッサイ、何もしてこなかったよね。
先生の家は狭いアパートで。
でもその狭いアパートいっぱいに画材やキャンバスが散らばっていて、もっともっと狭くなってたね。
先生は家に入ると何も言わずに、ひとりで絵を描きだした。
わたしは先生の後ろから、黙ってそれを見ているだけだった。
しばらくしてから、先生はピザを頼んでくれた。
食べてるあいだ、わたしはずっとお母さんの愚痴をこぼして、先生は黙ってそれを聞いてくれてた。
「親御さんが心配するから」って先生が言ったけど、わたしは「心配なんかしないよ」って口を尖らせて答えて。
だけどさすがに怒られそうだから、その日は大人しく帰ったんだ。
それから。
わたしは何度も先生の家に行くようになったね。
もしかしたらわたしが押しかけてただけかもしれないけど。
一緒に帰って変な噂を流されるのはイヤだったから、先生の家の前で待ってたね。
先生は何も言わずに家に入れてくれて、そんでまたひとりで絵を描くの。
先生はほんとは画家になりたかったんだよね。
インショー派とかアカデミーとか、わたしにはよく分からなかったけど、たまに独り言のように美術の話をしているときだけは、先生よくしゃべってくれたね。
それから。
わたしがどうしてもってゴネて、その日は泊めてもらったよね。
先生から借りたよれよれのシャツは、なんだかおばあちゃんちの匂いがしたよ。
それで何もせずに寝ようとするから、頭にきてわたしから襲っちゃった。
先生は途中から諦めたように、わたしを抱いてくれたよね。
先生、あのね――。
親友の優香に話したら、これは「恋」じゃないんだって。
父親がいないわたしが先生に父性を求めているだけだって。
優香はちょっとだけ頭がいいから、わたしにそんなこと言ってきたけど。
わたしにはよく分からなかった。
この気持ちが「愛」とか「恋」じゃないならね。
じゃあ、なんなのよって話でしょ。
先生は画家だから、もしかしたらこの気持ちは「ゴッホ」とか「ピカソ」って名前なのかも。
んなわけないか。
もしこの気持ちに名前がないなら、わたしが付けてもいいのかな?
新しい星を見つけたら、名前を付けてもいいんでしょ?
それじゃあわたしはこの気持ちに「
そう、わたしの名前。
わたしの気持ち。わたしだけの気持ち。だから「小早川美恵」。……ちょっと長いかな?
わたしは先生が好きだよ。
なに考えてるか分かんない顔も、なんだかすっぱい匂いがする手も、コーヒーの味がするねばねばも。
先生コーヒーばっかり飲んでるもんね。
先生は草食系だけど、わたしが求めたら絶対に断らないよね。
なに考えてるか分からない顔で、わたしの胸に顔をうずめて。
ねぇ、先生。ほんとだよ。
わたしの気持ち。「小早川美恵」って名前を付けたこの気持ちはきっとほんもの。
だから今日はとても嬉しいの。
先生との愛の結晶。ううん。「小早川美恵」の結晶が。
わたしのお腹に宿ったよ。
なんだかわくわくが止まらないの。
いつものように、先生のアパートの扉を開けて。
先生はきっとキャンバスに向き合って座ってる。
わたしがこのこと話したら、先生はどんな顔するだろう。
それが楽しみ。すっごい楽しみ。
いまから話しかけるからね。
少しは表情変えてよね。
「先生、あのね――」
【完】
先生、あのね――。 飛鳥休暇 @asuka-kyuka
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