6-8 繋ぐ絆と紡がれる願い
ミレルカの唇の端がゆっくりと持ち上がり、弧を描く。
静かにミレルカとヴェルトールのやりとりを眺めていたベルムシオンも、二人の反応につられるかのように笑みを浮かべた。
一瞬だけ流れた絶望的な空気はどこにもなく、この場にいる誰もが無事に帰還できることを確信している。
その空気を作り上げたのは、今、ベルムシオンの傍で錬金術師とやりとりをしている小さな少女だ。
(……本当に)
本当に、ただ者ではない。
自身よりもはるかに幼く、小さな才能の塊を見つめながら、ベルムシオンは緩やかに目を細めた。
やはり、フルーメの街に置いておくには惜しい才能の持ち主だ。
(叶うのなら)
叶うのなら、やはり――。
一人、静かに考え込んでいたベルムシオンだったが、誰かに衣服を裾を引っ張られる感覚を覚え、はっと顔をあげた。
視線を落とした先にはミレルカが立っており、ベルムシオンの服の裾を指先でつまんでいる。こちらを真っ直ぐ見上げる彼女の顔色は相変わらず青白く、見ていて心配になるものだ。
「ベルムシオンさん、どうかしました?」
「いや、なんでもない。それよりもミレルカ嬢、ヴェルトールとの話はまとまったか?」
そっとミレルカの頭に触れ、優しく労るように彼女の頭を撫でる。
自身の頭に触れる体温に心地よさを感じながらも、ミレルカは小さく頷いた。
「まとまりました。ヴェル兄、迎えに来てくれるそうです」
「そうか、ならよかった。ヴェルトールはどれくらいでこちらに到着しそうだ?」
「ええと、多分」
もう、すぐにでも。
ミレルカがベルムシオンへ答えた瞬間、空気中に含まれている魔力の流れがわずかに変化する。直後、そよ風がその場を駆け抜けていき、ヴェルトールの姿が二人のすぐ傍に現れた。
「待たせたな、ミレルカ。ベルムシオン」
「ヴェル兄!」
ミレルカの表情がぱっと明るくなり、ヴェルトールへと駆け寄っていく。
だが、急に動いたことでミレルカの頭が大きくくらみ、足から力が抜けて身体が大きく傾いた。
「ミレルカ嬢!」
「ミレルカ!」
ベルムシオンとセシリアが思わず声をあげる。
ヴェルトールも内心驚きながらミレルカへ両手を伸ばし、小さな身体を受け止めた。
「うわっ、と。大丈夫か? ミレルカ」
「えへへ……ごめんなさい、ヴェル兄。私は」
「大丈夫なわけがないだろう」
大丈夫――と答えようとしたミレルカの言葉を、ベルムシオンが遮った。
ヴェルトールに受け止められた姿勢のまま、ベルムシオンのほうを見れば、心配を含んだ瞳でこちらを見つめている彼と目が合った。
深い溜息をつき、ベルムシオンがヴェルトールへと視線を向ける。
「ヴェルトール、ミレルカ嬢は今、魔力不足に陥っている。街に戻ったらすぐに休ませてくれ」
「……ほーう?」
「あっ」
ベルムシオンの報告を受けたヴェルトールが半目になり、口元だけを釣り上げる。
彼とともに長く生活を続けているミレルカにはよくわかる――これは、ヴェルトールが怒っているときの顔だ。
ミレルカが表情を引きつらせた瞬間、ヴェルトールの視線がこちらへ向けられる。次の瞬間、ヴェルトールの手がミレルカの片頬をつまんでぐぐーっと横へ引き伸ばした。
「ミレルカ、まーたお前無茶したなー?」
「い、いひゃいいひゃい、ヴェウ兄、いひゃい!」
片頬を引き伸ばされていることにより、普段よりもはっきり発音できていないが、それでも何をいいたいかは無事に伝わったらしい。
ミレルカの片頬を思う存分引き伸ばしたのち、ぱっと手を離し、ヴェルトールは深い溜息をついた。
「とりあえず、ミレルカはここ数日無茶しすぎだから帰ったら説教と休息な」
「はーい……」
まだ少しひりひりしている頬をさすり、ミレルカは小さく頷いた。
正直逃げ出したいが、ミレルカ自身もかなり無茶をしているのは自覚している。それに、逃走しても余計に説教の時間が延びるだけだ。なら、最初から大人しく受けたほうがいい。
そんなミレルカの様子を眺めつつ、ヴェルトールは軽く息を吐いた。その後、仕方がないといいたげに苦笑を浮かべてミレルカへ片手を差し出した。
「ん」
「はあい」
ヴェルトールが何をいいたいかは、言葉に出さなくてもわかる。
受け止めてくれていたヴェルトールの身体をそっと押し返し、一度彼から離れる。
バーナースタンドの上に乗せられたままになっているコッパー鍋の傍へ戻ると、ミレルカはボウルとこし器を取り出し、ボウルの上にこし器をセットした。
コッパー鍋を持ち上げ、そっとこし器へ鍋の中身を注ぎ入れる。こし器に溶け切らなかった素材が次々に引っかかり、ボウルの中には不純物のない魔法薬が残された。
「入れ物がないから、ワイルドにこれで。熱いから気をつけてね」
「了解」
中身をこぼさないように気をつけながら、ヴェルトールへ魔法薬――ディオサの涙が入ったボウルを差し出す。
ヴェルトールの大きな手がボウルを受け取り、ディオサの涙へ軽く息を吹きかけたのち、ディオサの涙に口をつけた。
すっきりとした爽やかなような、甘酸っぱいような、苦いような、形容しがたい味がヴェルトールの舌を刺激する。今まで口にしたどの魔法薬よりも特徴的な味で思わず吐き出しそうになったが、堪えて飲み込んだ。
一口、また一口と飲み込んでいくにつれて、体内を巡る不可視の力が強まっていくのを感じる。
まるで冬場に温かいものを口にしたときのように、身体の奥底が温まっていくような感覚がする。普段以上に魔力の巡りがよくなり、頭が冴え渡ってくるような気さえしてくる。
なるほど。確かにこれは、最高級品の魔法薬といわれるのも納得がいく。
己の人生で一度も口にすることはないと思っていたそれをゆっくりと、けれど確実に飲み干し、ヴェルトールは頭の片隅でそんなことを考えた。
空っぽになったボウルから口を離し、ヴェルトールが口元を乱暴に袖で拭う。
一連の様子を見ていたミレルカがそっと口を開き、ヴェルトールへ問いかけた。
「ヴェル兄、どう……?」
先ほどまでとは異なり、発された声にはわずかな不安が隠されている。
一般的な医薬品と同様に、魔法薬にも人によって合う合わないが存在するのは、この世界に生まれてから知ったことだ。
魔法薬の場合、魔力を持つ人間に合い、魔力量が非常に弱い、もしくは魔力を持っていない人間には合わないようにできている。魔法を扱えるヴェルトールなら体に合うと予想ができているが、やはりどうしても心配になってしまう。
ミレルカの中に芽生えたそんな不安を吹き飛ばすかのように、ヴェルトールが目を細めて笑みを浮かべる。
「んな顔しなくても大丈夫だぜ、ミレルカ」
「本当?」
「ああ。わりと特徴的な味だったから正直怯んだけど……今ならどんな魔法だって使える気がする。絶好調だ」
ヴェルトールの唇から、自信に満ちた一言が紡がれた。
彼の様子からも不調を隠している気配はなく、ディオサの涙の効果を無事に得られていることが読み取れる。
ほっと安堵の息をつき、肩の力を抜いた瞬間、ミレルカの視界がぐらりと大きく揺れた。
(あ、ちょっと、まずいかも)
ずっと張り詰めていた緊張の糸が途切れたのだろう。もう大丈夫だと思った瞬間、急激に身体が不調を訴えてきた。
世界が反転したかのように足元がおぼつかなくなり、視界がぐるぐると回転しているようにすら感じられる。目を閉じていても頭がぐらぐらしているような感覚がし、不快で仕方ない。
傍にいたベルムシオンの腕がふらついたミレルカを受け止め、そのまま抱え上げた。
「ベルムシオン、さん」
ありがとう、ごめんなさい、大丈夫だから。
ミレルカが頭に浮かんだ言葉を発するよりも早く、ベルムシオンが口を開く。
「ヴェルトール、急げるか」
「もちろん」
ベルムシオンからの短い問いかけに頷き、ヴェルトールが片手を伸ばして地面にかざした。
周囲を渦巻く魔力が光の粒子としてヴェルトールの目に映る。すぐ耳元で聞こえる精霊たちの声も、いつもよりもはるかによく聞こえる。
――今までの人生で一番調子がいい。少々難しい魔法だって簡単に発動できると内なる自分が叫んでいる。
ヴェルトールは自然と口角が上がるのを感じた。
「アプレ・フェー・ヴァン!」
浅く息を吸い込み、精霊たちへ呼びかける。
瞬間、ヴェルトールの耳元で聞こえていた精霊たちが返事をし、きゃらきゃら笑った。
ディオサの涙によって底上げされたヴェルトールの魔力に反応し、普段よりも多くの精霊が呼びかけに応えてくれている。それがはっきりとわかり、ヴェルトールの口元に浮かんだ笑みが深まった。
「俺たち全員をフルーメの街まで連れていってくれ!」
ヴェルトールが叫ぶようにそういった瞬間、ミレルカたちの足元に光が落ちた。驚く間もなく、落ちた光は地面の上を走り、その場に立つ人々の足元を駆け抜けて図形を描いていく。
ファーヴニルの身体を避け、人間やミレルカが使っていた道具のみを囲うように描かれたのは、魔法を扱う仕事についていない者でも一度は見たことがあるもの――巨大な魔法陣だ。
地面に描かれた線と線が繋がって完成した瞬間、魔法陣が強い光を放ち、魔力が渦巻く。森を駆け巡る風が強まり、木の葉を激しくざわめかせた。
急激に風が強まって木々がざわめき出す感覚は、ミレルカにとって覚えがあるものだ。
(ああ、本当に)
もう、大丈夫なんだ。
もう頑張らなくても、セシリア先生も、他の人たちも、ベルムシオンさんも街に帰れる。
あとは迎えに来てくれたヴェル兄がみんなを送り届けてくれる。
強い安堵がミレルカの中へ広がっていき、ベルムシオンの腕の中でミレルカは瞼を下ろした。
フルーメの街を出発してから数十時間。空が明け方のぼんやりとした色合いから、濃い夕闇の色を強める頃。
小さな錬金術師の少女がはじめて経験したささやかな冒険は、こうして幕を下ろした。
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