5-5 咆哮するもの
ファーヴニルの身体は大きい。さらに足を負傷しているのもあり、ベルムシオンに比べると彼を追いかける歩みは緩やかだ。
その分、確実に、ゆっくりと歩み寄ってくるため、威圧感と恐怖感が他の魔獣の比ではない。
なるほど、確かにこれは他の魔獣がドラゴンに遭遇した途端、逃げ出すのもわかる。
思わず傍にいるベルムシオンの服の裾を掴めば、すぐに大きな手が上から包み込むようにミレルカの手を握った。
「大丈夫だ」
真っ直ぐファーヴニルがミレルカとベルムシオンへ向かってくる。
傍目から見れば絶体絶命――だが、ファーヴニルの目に安息の篝火が映った瞬間、場の空気が変わった。
ファーヴニルが動きを止め、ぱちぱち音をたてながら揺れる安息の篝火を見つめている。
辺りには緑がかった炎から立ち上るハーブの爽やかな香りが満ちており、緊迫感に満ちた空気を和らげているかのようだ。
安息の篝火を見つめたまま、ファーヴニルは動かない。
どれくらいの時間だったかわからない。数分だったかもしれないし、数時間だったかもしれない。音もなく続いていた膠着状態は、ファーヴニルがわずかに目元を緩めたことで解除された。
敵意と警戒心に燃えていた瞳が凪いだ瞬間を見逃さず、ミレルカが口を開く。
「ファーヴニル、驚かせてごめんなさい。あなたを驚かせるつもりはなかったの」
下位種、上位種ともにドラゴンは知能に優れている。数ある魔獣の中でも完全に人語を理解できる数少ない種族といわれており、フロニア国にもドラゴンとともに国を駆けた騎士の伝説が残されている。
ファーヴニルもドラゴンの上位種だ。ならば、人語を理解できる可能性は十分にある――そう考え、ミレルカはファーヴニルへ呼びかけた。
つぃ、と。ファーヴニルの瞳がミレルカへと向けられる。
「同じ人間が、あなたを傷つけたと思うから。まずは、ごめんなさい」
その言葉とともに、ミレルカはファーヴニルへ深々と頭を下げた。
ファーヴニルは、ミレルカを見つめたまま動かない。
「あなたを傷つけたのも同じ人間だから、難しいとは思うけれど……できれば、あなたの傷の手当をしたいの。その……見せてもらっても、いい?」
緊張で声が震えているのを感じる。
それでも勇気を振り絞り、自身の前に立つ魔獣たちの王者へと言葉をかける。
竜狩りを行った本人ではないが、同族がファーヴニルを傷つけたことに対する謝罪と、ミレルカ自身の希望を伝え、じっと反応を待つ。
ファーヴニルの視線がミレルカから、つい先ほどまで命がけの鬼ごっこの逃げる側を務めていたベルムシオンへと向けられ、もう一度ミレルカへと向けられる。
少し前まであったものとは異なる緊張感に満ちた空気の中、数分か、数十分か――それなりの時間をかけたのち、ファーヴニルはゆっくりとその場に伏せた。
静かな反応に、ミレルカは目をぱちくりとさせる。
「……手当をしても、いいの?」
おそるおそるファーヴニルへ確認をとるため、再度声をかける。
すると、ファーヴニルは地面に伏せた姿勢のまま、ミレルカへ少々面倒そうな目を向けた。
手当をしてもいいといっている。
そういいたげに、ファーヴニルが少々じとりとした目でミレルカを見つめる。
一回、二回、ゆっくり瞬きをしたのち、ミレルカは自身の表情が安堵と歓喜で自覚できるほど緩むのを感じた。
はしゃぎたくなる気持ちをぐっと抑え、そっと口を開く。
「本当にありがとう、ファーヴニル。あんまり痛くしないように気をつけるから、安心して」
ふんす。ファーヴニルが鼻を鳴らす。
いいからさっさとしろ。ファーヴニルからの声なきメッセージに、ミレルカとベルムシオンは互いに顔を見合わせて苦笑を浮かべた。
許可を得られたのなら、ファーヴニルの気が変わってしまわないうちに手当をしなくては。
ベルムシオンに一言断ってから茂みの向こう側に戻り、地面に広げた道具を全て鞄の中に詰め直す。その中に傷薬を作るために必要な素材や道具があるのを改めて確認したのち、安息の篝火の傍で腰を下ろした。
「調合に入るのか」
ベルムシオンが静かな声で一言、問いかけてくる。
地面に座った姿勢のまま、彼を見上げ、ミレルカは一つ頷いてみせた。
「はい。材料も道具も揃ってるから、よく効くのを作ろうと思って」
なんせ、相手はファーヴニル。本来ならばそうそうお目にかかれない上位の魔獣だ。普段ミレルカが愛用している傷薬では、パワーが足りない可能性がある。
ならば、効き目が高い傷薬を作ってしまうのが一番だ。幸い、ここは森の中。傷薬を作るために必要な素材なら溢れかえっている。
ここで傷薬を作っておけば、ファーヴニルだけでなくベルムシオンの手当ても一緒にできて一石二鳥だ。
「ベルムシオンさんも大変だったと思うので、少し休んでてください。ちゃっちゃと作っちゃうので」
そういいながら、ミレルカは小型のバーナースタンドを立て、下に火種となる枝や枯れ葉などを敷き詰めて火を灯せば、調理台ならぬ簡易的な調合台の完成だ。
あとはミレルカが走り回って追加の素材を集めながら調合を進めればいい――そう考えていたが、ベルムシオンがその予定を変更させにかかった。
「いいや。これくらいの傷なら問題ない。僕も手伝おう」
大きく目を見開き、ベルムシオンを見上げる。
正直なところ、調合の手伝いをしてもらえるのはありがたい。だが、ベルムシオンは怪我人だ。おまけに、さっきまでファーヴニルという格上の相手との鬼ごっこを引き受けてくれていた。蓄積した疲労は相当なはずだ。
できるならば、ベルムシオンには頑張ってもらった分、休んでいてほしい。
だが、ベルムシオン本人の意志はミレルカの願いとは正反対のものだ。
「幼いミレルカ嬢のみが働いて、年長者である僕が何もしないというのは落ち着かない。何、これくらいの傷なら本当に大丈夫だ。手伝わせてほしい」
「う……」
そこまでいわれてしまうと、無理に休ませるのも悪いような気がしてくる。
ベルムシオン本人の意志を抑えつけてまで自身の希望を通すのも、間違っているような気がしてならない。
休んでもらうか、手伝ってもらうか――ぐるぐる考え込んだのち、ミレルカは少々気まずそうな顔をしながらも唇を動かした。
「て……手伝ってもらってもよろしいでしょうか、ベルムシオンさん……」
「そんな改まらなくても引き受けるというのに」
苦笑を浮かべながら一言呟いてから、ベルムシオンが気を取り直すかのように咳払いを一つした。
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