5-2 咆哮するもの

 伸びてきたベルムシオンの両腕がミレルカの身体を庇うように抱えあげ、ミレルカは鞄から取り出した魔獣避けの効果がある液体が入った試験管を放り投げる。

 ミレルカを抱えた勢いのままベルムシオンが走ってその場から離れれば、ミレルカがつい先ほどまで立っていた場所に何かが勢いよく振り下ろされた。

 大きく鋭い何かが力まかせに振り下ろされる音に混じり、放り投げた試験管が割れる高い音が鳴り響く。


 もし、ベルムシオンの反応が遅れていたらどうなっていたか――ぞっとする。


「ミレルカ嬢、大丈夫か!?」

「だ、大丈夫です、それよりもさっきの……」


 とっさに魔獣避けを投げつけたが、ミレルカに振り下ろされた何かは変わらず存在している。

 立ち上っていた土煙が晴れてくれば、何がミレルカに向かって振り下ろされたのかが鮮明になった。


 ミレルカが立っていた場所めがけて振り下ろされたのは、大きな爪だ。黒く鋭く、ミレルカやベルムシオンよりも――否、あらゆる生き物よりもずっと大きい。地面に深々と突き刺さったそれは簡単に命を奪い取れる形をしていた。

 ゆっくりと視線を上へ持ち上げ、爪の主はどのような姿をしているのか目にした瞬間、ミレルカもベルムシオンも息を呑んだ。


「……ドラゴン……?」


 あらゆる光を吸い込みそうな夜空の色をした鱗。

 両手足に生えた、地面をたやすくえぐり取るほどに鋭い爪。

 トカゲのように伸びた尻尾に背から生えた大きな翼。

 そして、頭部から伸びる黒く立派な角。

 ありったけの敵意と警戒心をのせてこちらを睨みつけてきているドラゴンは、ミレルカとベルムシオンを睨みつけて咆哮した。

 びりびり空気を震わせる声を聞きながら、ベルムシオンが表情を引きつらせる。


「……それも、ただのドラゴンではない。ここよりもっと遠方の地に生息しているはずのドラゴン」


 ぽたり。ベルムシオンの頬から冷や汗が流れ落ちる。


「暴食の竜、ファーヴニルだ」


 彼の唇から紡がれた言葉に、大きく目を見開く。

 即座に頭の中に浮かんだのは、セシリアが一度話してくれた内容だ。


『王都周辺で、本来そこに生息していないはずの魔獣が目撃された』


 脳内で次から次に、ミレルカの中に宿っている知識が結びついていく。

 ドラゴンと呼ばれる魔獣はさまざまな種類が存在するが、そのどれもがあらゆる魔獣の中でトップクラスの強さを持っている。他の魔獣がドラゴンに遭遇した場合、喧嘩を売らず、すぐにその場から逃げ出すほどだ。

 ゆえに、ドラゴンが繁殖のために違う場所へ移動する『渡り』と呼ばれる現象が起きる時期になると、移動するドラゴンから逃げるため、一時的に魔獣の生息域が変化する。


「……王都周辺で強い魔獣が目撃されたのは、これが原因だったんだ」


 ファーヴニルから逃れるために魔獣が移動し、本来なら王都周辺で目撃されないはずの強い魔獣が目撃されるようになっていた。

 だが、わからないこともある。ドラゴンが『渡り』をする時期は決まっている。それに合わせて外出禁止令や注意報が国から出されるが、今はどちらも出されていない。つまり、今はドラゴンの『渡り』の時期ではない。


 なのに、どうしてファーヴニルがこんなところに――答えの出ない思考を巡らせる中、ふと、ミレルカの目が一つのものを捉えた。

 ファーヴニルの背後。ちょうど大樹の根本に落ちている――明らかに大破した、馬車らしきものを。


「――!」


 一瞬で全身の血の気が引き、心臓が今まで以上に早鐘を打つ。

 一気に顔色を悪くしたミレルカの異変に気付いたのだろう、ベルムシオンの目がこちらへと向けられた。


「……ミレルカ嬢? どうした?」

「ベルムシオン、さん。あ、あれ」


 言葉を詰まらせながらも、ミレルカは震える腕を持ち上げて一点を指差す。

 示した先にあるのは、先ほどミレルカが見つけたもの。ただの残骸と成り果てた馬車だ。

 ミレルカの指先を視線で辿り、同じものを見つけたベルムシオンの表情がわずかに強ばる。

 ここにファーヴニルがいて、背後に馬車の残骸が転がっている。

 これまでに見つけた手がかりを組み合わせて導き出せる答えは、ただ一つ。


 セシリアを乗せた馬車は、逃げ込んだ先でファーヴニルに遭遇した可能性がある。


 ミレルカを抱えるベルムシオンの腕に、自然と力が込められた。


「……ミレルカ嬢、どうするべきだと思う」


 ファーヴニルにすかさず視線を戻し、ベルムシオンがミレルカへ意見を求める。

 二人の視線の先にいるファーヴニルは、今のところ二人を睨みつけたまま動く気配はない。だが、目には明らかな敵対心が宿っているため、少しでも動いたらファーヴニルも何か行動を起こすのは間違いないだろう。

 早鐘を打つ心臓を抑え、ミレルカも静かに思考を巡らせた。


 数あるドラゴンの中でも、ファーヴニルは上位種に分類される一体だ。仮に戦ったとしても、何もできず返り討ちにされる可能性が高い。よって、戦うという選択肢を選ぶのはあまりにも無謀だ。

 もっとも、仮にベルムシオンの装備が万全な状態だとしても、今回ミレルカは戦わずに目的を達成するのを目標としている。戦うという選択肢は最初から存在しないようなものだ。


「……あれ?」


 突破策を必死に考えていたが、ふと。

 ファーヴニルの様子が、何か違和感を覚えるものとしてミレルカの目に映った。

 どういう違和感があるのかはわからない。だが、よく見れば何かの違和感があるように見えてしまう。


(一体、何がおかしいって感じるんだろう)


 張り詰める空気を感じながら、必死に思考を巡らせる。

 わずかな違和感の正体を見つけるべく、ファーヴニルの観察を静かに続けていれば、ミレルカの目がその正体を捉えた。


 庇うように後ろへ引かれた片足。

 わずかな光を反射し、ぬらついたように見える箇所がある鱗。

 そして、風に混じっているほんのわずかな鉄の匂い。


 ――ミレルカが導き出した答えは一つ。


「……ベルムシオンさん。ほんの少しだけでいいんです。魔獣の注意を引きつけること、できますか?」


 静かな声で一言、問いかける。


「何か思いついたのか、ミレルカ嬢」

「思いついたというよりは気付いたといったほうが正しいと思います、けど」


 そこで一度言葉を切り、ミレルカはファーヴニルを指で指し示した。


「多分、怪我をしてます。あのファーヴニル」

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