3-6 日常に入った亀裂と決意

 弾かれたように布鞄から顔をあげ、リビングの出入り口に視線を向ける。

 開けっ放しになった扉の傍には、いつ頃から起きてきたのか、扉の傍の壁に背中を預けてヴェルトールが立っていた。


 昨日の日中、身にまとっていたローブはどこにもない。かわりに、ゆるっとした印象のある室内着に身を包んでいる。リラックスするための格好をして、表情は緩く笑みを浮かべているのに、こちらへ向けられる目はどこまでも鋭い。

 普段、彼と過ごす時間があまりないミレルカでも、すぐにわかった。


 今のヴェルトールは、相当怒っている。


「あ……あの、ヴェル兄、これはその……」

「こんな朝早くに目が覚めるなんて、眠りが浅かったのか? まあ、心配事もあるから眠りが浅くなるのも仕方ないかもしれないよな」

「そ、そう……ちょっと、いつもよりうんと早く目が覚めちゃって……」


 冷や汗が背中を伝うのを感じる。

 引きつった笑みを浮かべながらも、ミレルカはヴェルトールに言葉を返す。


 嘘は何一ついっていない。実際、眠りがいつもよりも浅かったのか普段よりもうんと早く目が覚めてしまった。セシリアの行方という心配事があるのもそのとおりだ。

 視線の先にいるヴェルトールが笑みを深め、預けていた背中を壁から離し、ゆっくりと大股にミレルカへと近づいてくる。


「本当にそれだけか?」

「……えーと……」

「ただ単に早く目が覚めただけなら、布鞄がそんなに膨れるまで物を詰め込む必要はないよな?」


 ミレルカの目の前まで歩いてきたところで、ヴェルトールの足が止まる。

 恐る恐る視線をあげて彼の顔を見上げれば、先ほどまで浮かべていた笑みを消してこちらを見下ろしている様子が視界に映った。


(あ、これ、ごまかせない奴だ)


 本能が「これは駄目だ」と訴えてくる。

 深く息を吐きだし、ミレルカは少しだけ両手をあげてヴェルトールの問いに答えた。


「……ごめんなさい。セシリア先生がどうしても心配だから、探しに行こうとしてました……」


 ヴェルトールの様子から、彼はミレルカが何かをしようと確信していた。その状態で無理にごまかそうとしても、こちらが不利になるだけだ。

 即座に判断し、素直に己が何をしようとしていたか白状する。

 すると、ヴェルトールは深く息を吐きだしてから、ミレルカの頭をぐわしっと掴んだ。


「やーっぱりな! もしかしてと思ったが、やっぱりそうだったか!」

「い、いだだだだ! ヴェル兄、痛い!」


 ミレルカの頭を掴む大きな手に力が込められ、ギリギリと爪をたてて締めつけてくる。

 思わず声をあげながら彼の手を引き剥がそうと奮闘するが、男と女。大人と子供。力の差は歴然で、ヴェルトールの手はびくともしない。

 ぎちぎち音がしそうなくらいに力を込めながら、ヴェルトールが口を開く。


「痛いじゃないっての! お前、一人で遠出するのがどんだけ危ないのかわかってるのか? お前は魔獣と戦えない、逃げるしかないんだぞ!?」


 ぐ、と言葉に詰まる。

 ヴェルトールがいっているのは正論だ。ミレルカも、自分が魔獣に対してどこまでも無力であるのは自覚している。ヴェルトールやベルムシオンのように、魔獣に遭遇した際に戦って切り抜けるという選択肢を選ぶことができない。


 そんな子供が一人だけで街の外に出て、誰かを探しに行く――いかに無謀で賢くない選択であるかは、まだ幼いミレルカでも十分理解している。

 理解している――けれど。


「でも、セシリア先生に何かあったのかもしれない!」


 ヴェルトールの手を引き剥がそうとする努力を続けながら、ミレルカは言い返す。

 いつまで経っても帰ってこないセシリア。彼女が不在の時間が長引けば長引くほど、幼い子供たちが抱える不安はより大きなものへと変化していく。


 もしかしたら今、どこかで危険にさらされているのかもしれない。

 探しに行かないことで、セシリアの命が失われてしまうかもしれない。


「ヴェル兄、お願い。セシリア先生を探しに行かせて。家族が危ない目に遭ってるかもしれないのに、じっとしてるのは嫌なの!」

「我が侭いうな! お前にまで何かあったらどうするんだ、母さんもあいつらも心配するし悲しむだろ!」

「でも……!」


 交わらない、平行線を辿り続けるだけの会話が続く。

 今回の件に関しては、ミレルカは譲らないつもりでいる。だが、ヴェルトールの様子からして、それは彼も同じだ。

 どちらかが譲らなければ終わらない、平行線の言い合いばかりが続く。

 ミレルカとヴェルトール、どちらが先に折れるかどうかといった空気が流れ始めた頃――二人の耳に扉がきしむ音が聞こえた。


「!」


 二人揃って、ばっとリビングの出入り口に目を向ける。

 もし、声に反応して幼い子供たちが起きてきたのなら――わずかな緊張がミレルカとヴェルトールの間に走ったが、出入り口からこちらを見ていたのは予想とは異なる人物だった。


「……すまない。何か邪魔をしてしまったか?」

「ベルムシオンさん」


 扉の傍に立ってこちらを見ているのは、ベルムシオンだった。

 昨日とほとんど変わらない姿をしているが、身体に巻きつけられている包帯は真新しいものに取り替えられている。顔色も特に悪くなく、いたって元気そうな様子だ。

 どこか気まずそうな顔をしている彼を見つめ返し、ミレルカは首を左右に振った。


「大丈夫です。その……少し話し合いをしていただけなので」


 実際のところは、話し合いというよりはお互いに意見を譲らない言い合いだが。

 それはベルムシオンも薄々感じ取っていたらしく、ミレルカの言葉を聞いて、苦笑いを浮かべた。


「とてもではないが、そうは聞こえなかった。派手な喧嘩に発展はしていなさそうだから、少し安心したが」

「……あー……。もしかして、廊下に声漏れてたか?」


 今度は、ヴェルトールがバツの悪そうな顔をして頬をかく。


「声が漏れているというか、普通に聞こえたな。幸い、僕以外に起きてきている気配はない。他の住民たちに先ほどの話を聞かれてしまったかという心配はしなくても大丈夫だろう」

「あー……」


 ミレルカとヴェルトールが顔を見合わせ、お互い気まずそうに笑う。

 言い合いを繰り返す途中で、ヒートアップしていたのはミレルカも感じていた。自然と声のボリュームが大きくなっていたようだ。


 まだ幼い弟や妹たちを起こしてしまう結果にならなかったのは少し安心したが、気をつけないといけない。子供たちを起こしてしまった結果、セシリアがまだ帰ってきていないことが広まるのは、ミレルカもヴェルトールも望んでいない。


「悪い。こう、ちょっとヒートアップしちまってな」

「私も……気をつけなくちゃ。すみません、ベルムシオンさん」

「いいや、気にするな。僕のほうこそ、立ち聞きをしてしまってすまない」


 首を左右に振りながら、ベルムシオンが言葉を返す。

 穏やかなそうな笑みを浮かべていたが、次の瞬間、ベルムシオンの瞳に真剣な光が宿った。


「……それで、何があった?」


 静かな声で、ベルムシオンはミレルカとヴェルトールへ問いかけた。

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