2-3 傷痕と異常

 丁寧かつ、できるだけ静かに扉を閉める。

 そのまま静かに廊下を歩き、ミレルカは普段みんなで過ごしているリビングのような部屋へ向かう。


 この施設で暮らしている者たちにとって憩いの場になっているこの部屋には、大体いつも誰かしらが過ごしている。幼い妹や弟たちのうち、寂しがり屋な性格をした子供がわざわざ子供部屋を離れ、ここで遊んでいることも多い。


 目的の人物がいるとしたら、ここかもしれない。そんな予想をたてて顔を出してみれば、ミレルカの予想どおり、ソファーに座って本を読んでいるヴェルトールの姿があった。


「ヴェル兄」

「おっと……ミレルカか。あの旅人の様子はどうだ?」

「まだ気を失ってる。目覚めるのはいつになるか、ちょっとわからない」


 答えながら、ミレルカはリビングに足を踏み入れた。


 リビングとして使われている部屋には、みんなで食事を囲める大きなテーブルが設置されている。周囲を取り囲むようにずらりと椅子が並んでおり、それぞれの席にそれぞれの名前が書かれた札がついている。

 奥のほうには大きめのダイニングキッチンがあり、ここで調理ができるようになっている。朝食時や昼食時、夕食時にはセシリアがキッチンに立ち、ミレルカがその手伝いをするというのが日常だ。


 ヴェルトールが腰かけているソファーは、出入り口から見て左手奥に置かれている。先に食べ終わった子供たちが、まだ食べている子を待ちたい場合の待機スペースになっている場所だ。退屈しないように少しのおもちゃや本が置いてあり、寂しがり屋の子供たちが遊びに来たときはいつもこのスペースにいる。


 声をかけてきたミレルカに優しい笑顔を浮かべ、ヴェルトールは手にしていた本に栞を挟んでから閉じた。ちらりと見えた表紙には『錬金術と武具について』というタイトルが記されており、錬金術に関する何かを調べていたと予想ができた。

 彼のほうに歩み寄っていきながら、ミレルカは言葉を続ける。


「セシリア先生は?」

「母さんなら少し出かけてくるっていってた。ほら、あの旅人、怪我してただろ? しばらくはここで安静にしてもらいたいから、ちょっと隣町まで追加の薬や食材を買ってくるって」


 ヴェルトールからの答えに、思わずきょとんとした顔をする。


「え、そんなに余裕なかったっけ。まだ十分あると思ってたけど……」

「念の為にだと思う。ここには食べざかりの奴らが多いだろ?」


 そういって、ヴェルトールは少しだけ苦笑を浮かべた。

 彼の笑みにつられるように、ミレルカも同じように苦笑を浮かべて納得する。

 ミレルカもそうだが、ここにいるのは育ち盛りの子供たちが中心だ。特に男の子は本当によく食べるし、ここに来る前にひどくお腹をすかせた経験がある子だと特にたくさん食べようとする。

 それに、今はヴェルトールも帰ってきている。そこにミレルカとヴェルトールの二人が保護した青年の分も含めるとなると、念の為に買い出しに出かけるのは正解かもしれない。


 傷の手当てに使う薬も、フルーメの街にある魔法道具店や薬屋である程度購入することができるし、ミレルカが調合することもできる。だが、より豊富な種類の医薬品が置かれているのは、隣町にある魔法薬店のほうだ。

 今の時間は昼頃。この時間にセシリアが施設を離れているのなら、今日はミレルカが昼食を作ることになりそうだ。

 一瞬だけ時計に目を向け、このあとのスケジュールを頭の中で組み立てておく。


「ところでミレルカ。俺を探してたってことは、何か用だったのか?」

「あ、うん。ヴェル兄に伝えておきたいことがあって」


 小さく頷き、ミレルカはヴェルトールに青年の武器や防具を観察して気付いたことを話した。

 折れていた剣の刃の砕け方。防具についていた溶かし引き裂かれたような傷痕。防具にディアモン鉱が使われている可能性があること。

 一つ一つの話が進むにつれ、ヴェルトールの表情は少しずつ真剣味をおびたものに変化していった。

 最終的に顎へ手を当て、彼が深く思考を巡らせるときの姿勢になる。


「ディアモン鉱を使った防具か……確かにそれなら、うちの街の周辺にいる魔獣では傷をつけられないはずだ」

「それに、剣の刃を噛み砕いたみたいな折れ方も気になるの。剣を噛み砕けるとなると、かなり身体が大きな魔獣のはずでしょう? でも、フルーメの街周辺ではそんなに大きな魔獣が出たなんて話は聞いたことないし……」


 この辺りに住んでいる魔獣のうち、比較的身体が大きなものは、狼のような姿をしたルボワウォルフという魔獣だ。気絶していた青年を取り囲んでいた魔獣でもある彼らは、群れのリーダーになると人間の子供を平気で背中に乗せられるくらいの大きさになる。

 だが、ルボワウォルフが飛びかかって剣に食らいついたとしても、あそこまで派手に噛み砕くことはできないはずだ。

 魔獣と接し慣れているだろうヴェルトールの反応をちらりと見るが、彼も何やら考え込んでおり、あまりぱっとしない反応を見せていた。


「ヴェル兄も、心当たりがない?」

「……正直な。この辺りでそんなことができる魔獣は思い当たらない」


 苦々しく表情を歪め、ヴェルトールが首を左右に振る。

 ヴェルトールにも心当たりがない――となると、一つの嫌な可能性が浮上してくる。

 外に出かける前に、ヴェルトールから聞いた話。王都周辺で、本来そこに生息していないはずの魔獣が発見されたという噂。


 あれがただの噂ではなく真実で、王都周辺だけでなく他の場所でも同じようなことが起きていたとしたら?

 あの青年は、本来の生息場所から外れた魔獣に襲われたのだとしたら?


 嫌な想像に、ミレルカの心臓が冷たく締めつけられる。

 だが、即座に伸ばされた大きな手が頭に触れ、優しく伝わってくる暖かさがミレルカの中に広がりつつあった不安の芽を優しく摘み取った。

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