第18話
六日後。
菜々美は出社して席につくと、PCの電源を入れた。始業時間の二十分前。普段とぴったり同じ時間だった。
フロアには始業前の緩んだ空気が漂っていた。コーヒーを飲みながらPCを眺めている者、隣の席とお喋りをしている女子社員、机の上に重ねた腕を枕代わりにして突っ伏している者も見える。
隣の鬼頭は席にいなかった。PCの電源が点いているので、すでに出社はしているようだ。そういえば課長の姿も席に見えない。普段は始業の一時間以上前に席についているので、珍しいことだった。
「小田島さん、ちょっといいかしら」
背後から低い声がした。菜々美は振り返った。
腰をかがめた鬼頭の顔が肩のすぐ後ろにあった。眉の形が八の字になっている。困ったときの鬼頭の表情だった。
「はい、何でしょう」意識して明るく答えた。けれども何となく胸騒ぎがした。
「ちょっと、会議室まで来てくれる?」
鬼頭が姿勢を戻し、右手をフロアに伸ばした。そのまま背中を向け奥に進んでいく。
「…………はい」
菜々美は椅子から腰を上げた。何だろうと思った。鬼頭の後ろ姿には、質問を受け付けないような頑なさが感じられた。
鬼頭が会議室の扉を開き、先に中に入った。菜々美も後に続いた。
ブラインドの下りた窓を背中にして、課長の久野がテーブルの向こうに座っていた。毛量の多い髪をオールバックに撫で付け、銀縁の眼鏡をかけている。
いっけん冷たそうに見えるのだけれど、その実、女性のように細やかな気遣いができて、さらに独身。当然、社内の女子社員にもファンが多い。菜々美は特にタイプというわけではなかったけれど。
「小田島さん、朝から申し訳ありません。そこに座ってください」久野は新人、ベテランの分け隔てなく丁寧語で話す。こんなところも人気のポイントだった。
菜々美は久野の向かいに腰を下ろした。鬼頭が久野の隣に座る。
テーブルをはさんで久野と鬼頭に向かい合う形になった。
「あの…………何でしょうか」
何となく奇妙な雰囲気に耐えられずに、菜々美は口を開いた。
久野が中指で眼鏡を押し上げた。
「まわりくどい言い方をしても仕方がありません。ですからはっきりと申し上げます。小田島さんは木嵜陽介さんをご存知ですね」
「あ…………はい、同じ大学の後輩で、サークルも同じでした」
やはり何らかの不正行為が判明したのだろうかと、とっさに思った。
「今でも交流がおありですか」
「あ、いえ…………」
菜々美は鬼頭を見た。何があったのか、と目顔で訊いたつもりだった。けれども鬼頭は菜々美と目を合わさなかった。ただ固い表情のままテーブルの一点を見詰めている。
「いかがですか」
声に視線を戻した。久野が眼鏡の奥の目をじっと菜々美に据えている。こんな久野の目を見るのは初めてだった。
菜々美は椅子に座りなおし、背筋を伸ばした。隠し立てをする必要はないと考えた。
「サークルの後輩ですから交流がまったくないわけではありません。でも実際に会ったり電話で話したりはありませんでした。サークルのメンバーで作っているLINEでお互い情報交換をするくらいです。でも、最近はそれもあまりしていませんし――」
「なるほど、よくわかりました」
菜々美の話をさえぎって久野がいった。最近、居酒屋で会ったことを言いそびれてしまったけれど、久野の厳しい表情にそれ以上、言葉が続かなくなってしまった。
久野がテーブル上のノートPCを開き、タッチパッドの上で中指を動かした。
「ちょっとこれを見ていただけませんか」PCの向きを変え、画面を菜々美に見せる。
菜々美は上体を倒して、顔を近づけた。顔写真やアニメのアイコンが表示された横書きのコメントが画面のしたまでびっしりと並んでいる。すぐにツイッターのコメントだとわかった。
菜々美は上から順番にコメントを読んでいった。
ベストツィート
――東照大学のKは超大手化粧品会社S社の内定を早々に獲得した。成績も悪く特技もない彼がなぜS社の内定を獲得できたのか? それ以上に不思議なのが、彼はS社の入社試験を受けていないという事実だ。
だっさー@dassa2_eval 一昨日21:19
――そして偶然だが、現在S社の人事部にはKの大学の先輩社員が勤務している。二人は交際しているという噂もある
だっさー@dassa2_eval 一昨日21:22
――本日入社試験の皆さん、S社の裏口入社のお手伝いをしますよ。そのかわりにアタシを満足させるのよーーーー
糸魚川の不満女@human_itoigawa 3分前
――東昭大学のKってオレの先輩じゃん。その人、粧生堂内定したっていってた。昨日も一緒にオールした。
ここりんつー@kokorin_two 3分前
――粧生堂の人事部の子、知っる。むちゃくちゃ美人だしモロタイプ。狙ってたんだけど。そうかー、男がいるのかー
はし@beer_hashi 4分前
「…………これって」数行を読んで、口元に手を当てた。
画面には『粧生堂』というキーワードでツイートされたコメントが並んでいた。そしてそれらが何についてのツイートなのかは、すぐに理解できた。
ツイートの数がものすごい勢いで増えているのがわかった。新しいツイートが画面のいちばん上に表示されると、古いツイートが押し出されるように画面の下に消えていく。そしてたった今表示されたばかりのツイートも次々と表示されるツイートに押し出されて、また画面の下に消えていった。
画面の右側にはツイート数の推移と書かれた折れ線グラフが表示されていた。ほとんど垂直くらいの傾斜で線が右肩上がりになっている。つまりツイート数が急速に増えているということだ。
菜々美はテーブルに両手をつき、椅子から立ち上がった。
「でたらめです」思わず叫んでいた。「有り得ないわ…………」
久野は無表情で菜々美を見上げていた。鬼頭は相変わらず視線を下に向けている。
「座ってください。話は終わっていません」
久野が右腕を前に出して、手を上下に動かした。
菜々美は倒れ込むように椅子に座った。肩で息をしていた。
「今の時期、我が社で内定を得ている東照大学の学生といえば、木嵜陽介君しかいません。そして人事部で東照大学出身といえば、小田島さんしかいません」
白くて長い指をテーブルの上で組み合わせ、久野はじっと菜々美を見つめた。
「だから、でたらめ――」
身を乗り出す菜々美に、久野が右の手のひらを前に出した。
「我々も、この程度のことで事を大きくするつもりはありません。まあツイッターなんて言葉遊びのようなものですから。しかしですね――」
久野が耳の後ろを掻きながら、苦いものでも口に入れたように顔を歪めた。「昨日、雑誌のフリーライターだという人から弊社に連絡がありました。彼は『貴社に内定した木嵜陽介氏は「替え玉」を使って入社試験を受けている。その後処理は貴社人事部の小田島菜々美氏が矛盾が露呈しないように行っており、証拠も入手している』といってきました」
「嘘です。そんなこと有り得ません」
菜々美は語気を強くした。「課長も木嵜君とは面接で会っていますよね。履歴書だって見ているはずです。そうだわ、PCに保存されている履歴書の写真と見比べてみたらどうですか。その人のいっていることが嘘だってわかるはずです」
「その点も確認をしました」久野が隣の鬼頭をちらっと見て、菜々美に顔を戻した。「正直、こういう事態になってしまうと、履歴書の写真と面接のときの木嵜君が完全に同一人物かどうか我々も確信が持てません」
「そんな…………」
無責任すぎるんじゃないですか、との言葉を飲みこみ鬼頭を見た。「鬼頭さんも課長と同じ意見ですか」
「私も…………よくわからなくって…………」鬼頭が髪に手をやり、微苦笑した。
その表情を見て、菜々美は怒りが顔に出てしまうのを隠せなかった。
何が可笑しいのよ――そもそもPCに保存されていた陽介君の画像を見せてくれたのはあなたよ。「ほら、間違いないでしょ」って、あなたがいったのを私ははっきり覚えてる。
「まあ、人間の記憶なんて曖昧なものですからね」
久野が助け船を出すように口をはさんだ。「ですから私も社内のシステム部門の知り合いに頼んで、保存されている履歴書に不審な点はないのか調べてもらいました。すぐに写真のデータが切り貼りされた痕跡があることがわかりました」
菜々美は瞬きもせずに久野の言葉に聞き入っていた。
久野は顔をそむけてごほんと咳をした。また菜々美を見る。眼鏡の奥の目が光ったように見えた。
「面接したとき替え玉の写真が貼られていた履歴書は、何者かが後から木嵜君本人の画像データに張り替えたのではないか、というのが我々の推測です。これがフリーライターのいうところの矛盾の露呈の防止というやつなのでしょう」そこまでいって、じっと菜々美に視線を据えた。
「それが私だというんですか」菜々美も久野の視線をまっすぐ受けとめた。ここで逸らしたら負けだと思った。
久野は〝我々〟といった。つまり鬼頭も同じ意見だということだ。
「木嵜君本人は何といっているんですか。本人に確認するのがいちばん早いじゃないですか」
「もちろん確認はします。しかし木嵜君が本当に替え玉を使っているのなら、決して認めないでしょうね。木嵜君の入社を決めたのは他ならぬ会長です。そんな〝会長案件〟だから、我々も慎重にことを進めなければなりません」久野が人差し指で眼鏡を押し上げる。「そうこうしているあいだにも、ツイッターで情報がどんどん拡散していきます。このまま放置しておけば、粧生堂にもどういう影響があるか想像もつきません。間違った情報管理がもとで経営危機を起こした会社もあるほどですからね」
「実際、会社の問い合わせ窓口や、会社の代表にもこの件に関して問い合わせが入ってきているようなの。大きな問題になる前に何とかしないと」
鬼頭が初めてまともに口を開いた。
「そうですか」
菜々美はわざと冷たい口調で言い放ち、すぐに久野に視線を戻した。「私はどうすればよいのでしょうか」
「ひとまず今日から自宅待機をしてください。これは正式な処分ではありませんので、有給扱いで処理をします」
久野がためらうことなく答えた。それで、最初からこの結論ありきだったのだとわかった。
「わかりました」
いいたいことは山ほどあった。だが、とにかくぐっと堪えた。ここで感情的になったら疑いを認めてしまうのも同じような気がした。
久野の言葉を待たずに椅子から立ち上がった。その場で一礼して部屋を出る。
「小田島さん」
廊下を歩いていると背後から声をかけられた。振り返ると鬼頭がこちらに小走りで近づいて来た。
菜々美は脚を止め、身体の向きを変えた。
「何でしょうか」
わざと声を低くして答えた。
「小田島さん、本当に不本意でしょうけど気を悪くしないで。課長はああいっていたけど、あなたがそんなことをする人じゃないっていうのは、私がいちばんよくわかってるから」
鬼頭が眉を八の字にしながらいった。
「…………そうですか」何を今さらいっているの、と思いつつ意外にも胸の内側がすこし熱くなったような気がした。
鬼頭がじっと菜々美の目をのぞきこんだ。
「小田島さん、安心して。私が必ずあなたへの疑いを晴らしてみせる。私はあなたの味方だから」菜々美の肩に手を置いた。
味方という言葉を聞いて、張りつめていたものがぷつん、と途切れたような気がした。胸に何かがこみ上げてきて、視界が白く滲んだ。
気が付くと頬に温かいものが流れていた。自分でもびっくりした。
菜々美は耐えられなくなり、わんわん声を上げて泣いていた。
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