第17話
霧郎は木嵜陽介との待ち合わせのファミリーレストランの扉を押し開いた。出てきた店員に待ち合わせだと伝え、フロアに進む、
店内は半分くらいの入りだった。三軒茶屋という土地柄からか学生風の姿が多い。霧郎はまわりが空いている四人がけのテーブルに腰を下ろした。
店員にドリンクセットを注文して、席を立った。サーバーからコーヒーを取って席に戻る。
あらためて店内にゆっくりと視線を巡らせた。まだ木嵜陽介の姿はない。腕時計に目を落とした。待ち合わせの三時まで三十分近くあった。
二時五十五分、木嵜陽介が店に入ってきた。金髪に染めているのが意外だったが、特徴的な大きな目ですぐにわかった。店内をきょろきょろと見回しながら隅のほうの二人がけの席に座る。
霧郎はコーヒーを飲みながら様子をうかがった。
木嵜は椅子に座っても落ち着かないようすだった。不安そうな顔を右に左に動かし、髪や鼻にせわしなく手をやっている。ポケットからスマホを取り出して、テーブルの上に置いた。
霧郎はテーブルの上にスマホを置いたまま、指をスライドさせた。木嵜の番号を呼び出し発信のボタンを押す。
同時に木嵜がびくりと全身を震わせた。あまりにも大きく動いたので隣の席の中年女もびっくりしたのだろう、椅子から飛び上がりそうになる。
とがめるような女の視線に頭を下げ、木嵜がスマホを手に取った。真剣な顔でじっと画面を見つめている。
霧郎は口元に手を当て、笑いをかみ殺した。
やがて木嵜が画面に指を滑らせて、スマホを耳に当てた。もしもし、といっているのが口の動きでわかった。
霧郎はテーブルからスマホを拾い上げ、耳に当てた。
「ここです。席にいらしてください」木嵜に向かって笑いかけ、片手を挙げた。
怯えた顔を店内に巡らせていた木嵜の動きが止まった。同時に目を見開き、弾けたように席から立ち上がった。
『あ、あの…………』剥いた目を霧郎に張り付けたままいった。
『あまり大きな動きをして目立たないように。静かにこちらに歩いてきてください』
霧郎はできるだけ穏やかにいい、通話を終えた。スマホを上着のポケットに戻す。
木嵜が向かいの席に座った。すこし顔を俯かせ、ちらちらとこちらに目を上げる。
「木嵜さん、そんなに緊張されなくても大丈夫ですよ」
霧郎はテーブルに両肘をついて指を組み、意識した笑みを作った。あらためて木嵜の全身に視線を巡らせる。パーカーに色の落ちたジーンズ、カーキ色のブルゾン。本当にどこにでもいる普通の大学生だった。
「金髪に染められたんですね。なかなかお似合いですよ」
「ええ、まあ…………」
木嵜がひきつった笑みを浮かべ髪に手を置く。何かをいおうとしたのか、いったん顔を上げるがすぐに下を向いた。
霧郎は木嵜の言葉を待った。テーブルに指を組んだままじっと木嵜を見つめる。
客の入店を知らせるチャイムの音、他のテーブルから聞こえてくる話し声、笑い、しわぶき――店内のざわめきだけが霧郎と木嵜のあいだに漂っている。霧郎は沈黙が相手に与える効果をよく理解していた。
「あの…………」
木嵜が顔を上げた。強い気持ちと怯えが混ざったような目を霧郎に向けてくる。「今日はどういった話でしょうか」
霧郎は微笑を浮かべたまま、コーヒーカップに口をつけた。学生にしてはよく沈黙に耐えたほうだと思った。
カップをテーブルに戻して、木嵜を見た。
「あなた、ご自分ではなぜ粧生堂に内定したとお考えですか」
「いや、それは…………」木嵜が目をそらした。
「惚けないでくださいね。そもそも私があなたの不可解な内定を知っているという事実をきちんと理解してください」
霧郎は木嵜に視線を据えたまま、言葉をついだ。
「どうして…………そのことを知ってるんですか」
「私があなたを内定させたからですよ」
えっ、といった口の形のまま木嵜の顔が固まった。
「どういう…………ことでしょうか」
「どうもこうも、そのままの意味だよ。君は入社試験を受けていない、にも関わらず粧生堂から内定を得ている。しかもワンマン会長による直接指名っていう異例の経緯だ」
霧郎はいったん言葉を止めた。そのあいだも木嵜から視線は離さない。
「有力なコネもない君にはあり得ない話だろ。もちろん君は会長との面識もない。けれども誰かが面接をしているんだ。それは誰か…………」
木嵜の心の中の疑問をあぶり出すようにゆっくりと話した。「君はこの謎が解けているのか?」
霧郎は意識して口調を変えていた。けれども決して言葉は荒げない。呼びかたを木嵜さんからあなた、あなたから君へ、声もすこしずつ低くして心理的に木嵜を追い詰めていく。
「答は簡単だ。君のかわりに入社試験を受けたものがいたということだ」
霧郎の言葉に、木嵜の大きな目がさらに見開かれた。裂けてしまうのではないかと思えるほど目いっぱいに広がり、白目の真ん中にとり残された瞳が小刻みに震えている。
霧郎は木嵜から視線をはずし、カップに手を伸ばした。コーヒーはすっかり冷めていた。
「替え玉だよ。聞いたことがあるだろう。どこかの芸能人の息子が大学の入試を替え玉で行って、それがバレて大きな騒ぎになったことを。あれと同じだ。もっとも会長のご指名とは、私にも想定外だったがね」
「どうして…………」
木嵜が喘ぐように肩を動かした。
「その質問はどっちの意味なんだ。どうして僕なのか、それともどうしてそんなことをしたのか…………。いうまでもないか、。その両方だよな」
いってから席を立った。驚いた顔を上げて木嵜が霧郎を見る。
「コーヒーのお替わりをとってくる。君も飲むだろ」
「あっ、僕がやります」
椅子から腰を上げようとする木嵜に手を伸ばし、「いい、いい。これくらいは私のサービスだ」と笑みを作った。
カップを二つ手に持って席に戻った。
「ビジネスだよ」
「は?」
「就職や入学は、人生を左右するくらいの大きな節目だ。だから人間は必死に努力する。だから金になる。どうだ、君の質問の答になったかな」
「はあ…………」木嵜がテーブルの上に視線をさまよわせた。しばらくして、その視線を何もない一点にとどめ、やがて顔を上げる。
「つまり僕にお金を払えと…………」
「君の事は調べてある。学生には不釣り合いな都心のタワーマンションに住んでいて、その割にバイトもせず、学校にもほとんど行っていない。よほど実家が裕福なんだな」
「でも、僕は卒業できないかもしれないんですよ、それならあまり意味がないような…………」
霧郎は顔に浮かべた笑みを大きくした。木嵜が言葉を返してきたのが意外だった。どうやら若僧なりに腹を決めたようだと思った。
「それも知っているが、君は内定の事実を受け入れている。もしも受け入れていないのなら、何らかの対応を粧生堂に対して取っているはずだ。だが君のここのところの動きはどうだ。内定に安心しきって金髪に染め、毎日夜遊びざんまいだ。たとえ卒業できなかったとしても、不正な内定を受け入れたという事実は残る」
霧郎は上体を前に倒し、声を低くした。
「四年で卒業できなくても、いつかは卒業するつもりなんだろ。私はそのときを待つよ。そして君が試験を受けた会社の人事担当に、君が過去にそういう不正を受け入れた人間だと知らせてもいい。はたして人事担当者はどう思うだろうねえ」
我ながら実に稚拙な脅しだと霧郎は思った。
実際のところ、木嵜が入社試験を受ける会社をすべて調べて、担当者ひとりひとりに知らせることなど不可能だ。けれども人生の分岐点に立ち、追い詰められている人間はそういった現実には気が付かない。いや、たとえ気が付いても、もしかしたら、という不安のほうが大きくなると霧郎は経験から知っていた。
「いざとなれば親のコネでどうにかなると思っているんだろうが、私はこう見えてもしつこいんだよ。君が就職した先にまでこの話をしにいくつもりだ」
「でも、そんなことをしたらあなたもただでは済まないんじゃないですか。いざとなったら警察に――」
そこまでいってから木嵜が口元をおさえた。言い過ぎたと思ったのだろう。
霧郎は笑みを維持したまま、目に力をこめた。どうやらこいつは思ったよりも骨があるようだ、と思った。
「あまり私をみくびってもらっては困るな。こういう稼業に関わっているからはね、いつだってそういうリスクは想定している」
「あなたは…………ヤクザなんですか」震える声で訊いてきた。稼業という言葉から思いついたのだろう。
「こんなヤクザがいるわけないだろ」霧郎は自分の上着の襟をつまんだ。「スーツはイタリアのナポリ製、シャツはフランスのシャルベ、ネクタイはエルメスだ。全身ギラギラのブランド物の下品ななりと一緒にしないでくれ」そういって笑った。
木嵜は緊張した面持ちのままだった。恐る恐るといった感じで口を開く。
「…………いくら払えばいいんでしょうか」
霧郎は右手を木嵜の前に突き出した。ゆっくりと手のひらを広げる。「五十万円だ。それでこの件はいっさいなかったことにする」
えっ、と声を上げた木嵜の顔に、安どの色が浮かんだ。その表情を霧郎は見逃さなかった。今まで金額を聞いた全員が同じ反応をしていた。
「本当にそれでいいんでしょうか」
質問まで倣ったように同じだった。
「安すぎると思ったかい。だが本当にそれでいい。なぜだかわかるか」
木嵜が顔を大きく振った。知りたくもないといいたげだった。
「私は替え玉入社をするような出来の悪い人間には興味がない。むしろ、どんな一流企業にも入社できるくらいの能力がある替え玉役の学生のほうに魅かれる。そして重要なのは――」霧郎は人さし指を立てた。「そういった優秀な学生が不正の実行犯となり、アルバイト代として収入を得たという事実だ。優秀な連中は、放っておいても一流企業に入社する。そして私は彼らが社会人になってから連絡を取る。彼らはエリートだ。不正に加担した過去を話すと言えば金を払うし、闇金も喜んで金を貸す。もちろんその金額は五十万円では済まない」
木嵜はすこし顔を俯かせ、眉のあいだにしわをよせて霧郎の話を聞いていた。必死に内容を理解しようとしているようだった。
「でも、僕が一流会社の社員になれば、身代わり役の人と立場は違わないかと」
よく気が付いたじゃないか、と霧郎は眉を上げた。
「心配しなくてもあんたには五十万円以上は要求しない。失礼だがあんたらみたいな人間は、ほっておいても一流会社で勤まらない。要は化けの皮が剥がれるんだ。闇金が金を貸すのは安定的に金を回収できるからなんだよ、すぐに辞めてしまうような奴は私も紹介できない」
実際は身代わりをした人間、頼んだ人間の両方に、後々まで金を要求する。だが、このようにいっておけば、世間知らずの学生はたいてい安心して金を払う。そしてそれは木嵜も例外ではないはずだった。
霧郎の予想したとおり、木嵜陽介が一週間以内に五十万円を支払うと約束したのは、それから五分も経たないうちだった。
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