第16話
陽介が歌い終えると、後輩たちのあいだから拍手と歓声が上がった。
イエーイ、と裏返った声を上げるやつや、指笛を器用に鳴らすやつもいる。テーブルの上にはビールやカクテルのグラスが乱雑に並び、みな顔が赤い。
演奏が途切れるとすぐに次の曲が流れはじめた。アニメの主題歌になっているノリのいい曲だった。
さっきからいちばん騒がしい後輩の男が、「あ、オレオレ」とマイクを握って立ち上がる。男のまわりの連中がはやし立てるように、また声を上げる。
陽介はテーブルにマイクを戻して、スマホで時間を確認した。朝の四時をすこしすぎたところだった。電子煙草をくわえてシートに背を伸ばす。さすがに眠たかった。
これくらいの時間が、オールで遊んだときにいちばん疲れが出る時間のはすなのだけれど、後輩たちは相変わらず騒ぎ続けている。同じ年代でも一歳や二歳の年の差はやはり大きいな――陽介は金髪に染めた髪をかきあげながら、つくづく思った。あまり明るくすると内定先から呼び出されたときに黒髪に戻せなくなると考えたけれど、どうしてもいちど金髪にしてみたかった。
就職活動が活発になって、同級生たちは今日みたいなバカ騒ぎにほとんど付き合わなくなった。まわりに内定が出ている同級生はまだいない。
結果、陽介は今のように後輩たちと遊ぶことが多くなった。
学校には前よりも顔を出すようになっていた。すこし前までなら、部屋にいても夕方になるとサークルやクラスの同級生たちから誘いの電話がかかってきた。けれども今はぴたりとなくなってしまった。だからサークルの部室に顔を出して、暇そうな後輩を誘って遊んでいる。
大学を歩いていると、同級生たちが追い詰められたような顔をしてスーツ姿で歩いているのをよくみかけた。そんな同級生の横を私服で髪を染めた姿で通り過ぎるときの優越感が心地よかった。あるときスーツを着た大作を生協の書店でみかけた。陽介が声をかけても、大作は「おう」とひと言応えるだけで、その場から離れていってしまった。
「あれえ、木嵜さん。何か元気ないすよぉー」
赤い顔をした一年後輩の佐久間が陽介の隣に倒れこむようにして座った。その勢いで手に持ったグラスの水割りがすこしこぼれ、陽介の手を濡らした。
「お前さあ、もうちょっと静かに座ってくれよ」笑いながらおしぼりで手を拭いた。
佐久間が眉のあいだに縦じわを寄せ、いやいや、と立てたひとさし指を左右にふった。すぐにだらしない感じに表情がゆるむ。
「今日は木嵜さんの内定祝いも兼ねてるんすららぁー、主人公が盛り上ららなくってどうするんすかぁー」
陽介にもたれかかりながらいった。呂律が怪しかった。
「そうかい、そうかい。そりゃアンガトね」
適当に答えてグラスに口をつけた。
「あ、そういや木嵜さん。俺ね、ちょっと変ら噂を聞いたんすけどぉー」
佐久間が片方の耳に指を差し込みながら大声でいった。曲が盛り上がりのピークに差し掛かっていてそうしないと声が聞こえない。
「へーえ、僕も世の中の噂になるくらい有名人になったんだね。やっぱ粧生堂内定の実績はデカいや」
「それそれ、それなんすよー」
佐久間が顔を近づけてきた。アルコールの臭いがぷんと鼻についた。「その内定、インチキなんららいかって言ってる人がいるんすよぉー」
陽介は顔がこわばりそうになるのを必死でおさえた。佐久間に顔を向ける。酒に赤くなった顔をへらへらと緩めていた。酔っぱらった勢いで訊きにくいことを訊いているのか、それとも何かを知っていて陽介の反応を見ているのかはわからなかった。
「何だよ、そんなこと誰がいったの?」できるだけさりげなく訊いた。
「俺はわかないんすけどぉー、逆に木嵜さんが思い当たる人っていないんすかぁ」
さあなあ、と顔を前に戻し水割りを飲んだ。
ちょうど曲が終わったところだった。また拍手と歓声が起こる。陽介もグラスをテーブルに戻して手を叩いた。
隣が静かなのに気が付き顔を向けた。佐久間が背もたれに頭を載せ、口を開いて眠っていた。
陽介はふっと鼻から息を吐いた。やっぱり酔っぱらった勢いで噂を確認したかっただけなのだろうと思った。どうやら何か情報があって訊いてきたわけではないようだ。
しかし、と陽介はソファに背を伸ばした。
佐久間が耳にしているくらい、自分の噂は広がっているのだと実感した。ひょっとしたらここにいる連中のほとんどが知っているのかもしれない。
電子煙草の煙をゆっくりと吐き出した。自然と目が鋭くなっているのを自覚していた。あるひとつの考えが陽介の頭の中に浮かんでいた。
カラオケ店を出て部屋に戻った。シャワーも浴びずにベッドに横になった。本当に疲れていた。
目を覚ますとすでに夜になっていた。天井まで届く大きな窓の外の空は暗く、黄金色に輝く東京タワーがベランダの向こうに見えた。
ベッドから出たところで、テーブルの上のスマホが鳴った。知らない番号からだった。陽介はすこし考えてボタンを押した。
『もしもし、木嵜陽介さんですか』落ち着いた声だった。二十代か、三十代か。
『そうですけど…………』
『粧生堂への内定おめでとうございます』
『ありがとうございます』とっさに浮かんだのが生命保険の営業電話だった。『あの…………生命保険にはもう入ってますから』
電話の向こうから低い笑い声があがった。
『木嵜さん、ご安心ください。そんな電話じゃありませんよ』くっくっ、と笑いを押し殺すような声がした。『もっとも、私の話を聞いていただけないのなら、生命保険の増額を検討したくなるかもしれませんが』
陽介はスマホを握り直した。ベッドの上に腰を下ろす。
『どういう意味ですか』
『単刀直入にいいましょう。私はね、あなたの粧生堂の内定に関わる秘密を知っています』にやりと笑う気配があった。『どうですか。こういってもおわかりになりませんか』
陽介はベッドに寝そべって手を伸ばし、テーブルの上に置いた煙草とライターを手に取った。姿勢を戻して箱から一本振り出してくわえ、火を点ける。普段は電子煙草だけれど、何となく紙巻き煙草を喫いたい気分だった。
『さあ、さっぱりわからないですけど…………』
『木嵜さん、駆け引きをするような年じゃないでしょう。それに――』相手がすこしの間をあけた。陽介の反応をうかがっているようだった。『実はあなた自身がいちばん知りたいんじゃないんですか。どうして俺は試験も受けていないのに内定したんだろう、って』
陽介はスマホを耳に当てたまま、上を向いた。そのままの姿勢で目を閉じる。
『あなたは誰なんですか』いってから認めたも同然の言葉だと気が付いた。
『キリロウといいます。あらためて初めまして、木嵜陽介さん』
『僕に何を話したいんですか』
『木嵜さんにとっては決して悪い話じゃありません。むしろ私の話を聞いておかないと、あなたはとても不幸になる』
声がいちだん低くなった。『いいましたよね、生命保険の増額を考えたくなりますよって』
陽介はベッドに手をついて身体を支えた。キリロウの言葉遣いは穏やかだった。けれども声の裏に何ともいえない凄みがあった。
『ぼ、僕を脅してるんですか』
『とんでもない。すべてあなたのことを考えてのことです。どうですか、私の話を聞いていただけませんか』
陽介は言葉に詰まった。どう応えればいいのかわからなかった。キリロウという男も黙って陽介の返事を待っているようだった。
先に口を開いたのはキリロウだった。
『そんなに怖がらなくても大大丈夫ですよ。ではこうしましょう、実際に会う場所と時間は――』
キリロウが指定してきたのは、陽介の自宅の近くのファミリーレストランだった。しかも時間は昼間の三時。それでキリロウが陽介の自宅も知っているのだと察しがついた。
『…………わかりました』
スマホを持つ手に力が入った。強く目を閉じる。人目のあるファミリーレストランで、しかも日の高い時間なら安心だとの考えもあった。しかしそれ以上に、キリロウの静かな声には断りきれない何かを感じた。
『そうですか、それはよかった』
キリロウがふっと息を漏らす気配があった。
それから待ち合わせの要領を話して、電話が切れた。
陽介はスマホを耳に当てたまま、ツーという電子音をしばらく聞いていた。
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