第15話
菜々美は引き戸を開き、暖簾をくぐった。いらっしゃいませ、と威勢のいい声が白木のカウンターの向こうから上がった。
店の入口に立って店内を見回す。右側が白木のカウンター席になっていて、左手にテーブルが六つ並んでいる。席はほとんどが埋まっていて、中高年のサラリーマンが多かった。
いちばん奥の二人掛けのテーブルに見慣れた顔があった。慧吾が手を上げて、こちらに白い歯を見せている。
菜々美も小さく手を上げてこたえ、テーブルに近づいた。
「ごめん、待った?」
「謝ることはないだろ、時間ぴったりだ」
慧吾が左腕を上げ、腕時計に目を落とした。デジタルで表示された文字盤は九時ちょうどを示している。アップルがエルメスとコラボレーションした限定品だった。手首を覆い隠すほど太いベルトに四角い文字盤が特徴的だ。慧吾はこの時計を本当に気に入っているみたいで、ベッドの中でも外したところを見たことがない。
慧吾が店員を呼び、生ビールを二つ頼んだ。最初の乾杯はいつもビールのジョッキと決まっている。
突き出しの小鉢と生ビールが運ばれてきて乾杯した。菜々美はジョッキを傾けて喉に流しこみ、大きく息を吐いた。
「やっぱり仕事の後の一杯は最高よね」ジョッキをテーブルに戻し、鼻の下についた泡を指でぬぐった。
「相変わらず、お前は豪快だな」
「あら? こういう女は嫌い?」
「いや、気取ってお高く留まってる女なんかよりずっといい」口元を緩め、「ただし美人限定だけどな。これで見た目まで豪快だったらギャップがなくって面白くない」
「なによ面白いとか面白くないとか、そんな基準で私と付き合ってるの」
菜々美はちょっと頬を膨らませてみせたが、決して悪い気はしなかった。今まで菜々美をお前と呼ぶ男はいなかったし、美人といわれたのも嬉しかった。
「いっしょにいて楽しいってのは重要だぜ。お前だって俺といて楽しいだろ」
「そりゃまあ、そうだけど」
慧吾との会話はいつもこんな感じだった。どんな話をしても最後は慧吾のペースになる。けれども不快ではなかった。むしろ慧吾の機転の早さにいつも感心していた。
慧吾が手を上げ店員を呼んだ。菜々美に確認するでもなく、おつまみを慣れた様子で注文しはじめる。
菜々美は壁のメニューに顔を巡らせている慧吾を、改めてながめた。
サイドを短く刈り上げ、トップにボリュームを持たせたツーブロックのヘアスタイル、女の子みたいに睫毛の長い大きな目、いろいろな種類の糸を複雑に織り込んだ生地のジャケットをノーネクタイでさらりと着こなしている。
軽い感じの見た目で、菜々美の好みではないけれど、一般的にはまあまあイケメンの部類に入るのだろう。このルックスでベンチャーとはいえ会社を経営しているとなれば女性にモテないはずはない。
慧吾と出会ったのは、会社の友人と軽い気持ちで参加した街コンだった。
最初に慧吾を見たときは、見るからに軽い男でまったく興味を持たなかった。むしろ一緒に参加した友人のほうが積極的だったくらいだ。けれども実際に言葉を交わしてみると、思いのほか男っぽく、古風な考え方の持ち主で、趣味も菜々美と重なるところが多かった。今、菜々美たちがいる人形町の居酒屋も、昔からある呑み屋という風情の店だったが、こういう店が好きなのも菜々美と同じだった。
そうして何度かデートを繰り返しているうちに、将来のことも考えたうえで付き合ってほしいと告白された。菜々美はまだ会社に入ったばかりだし、仕事が楽しくなってきたので結婚を今は考えられないと答えた。
だが慧吾はそれでもいいといった。結婚相手は人生のパートナーなのだから、たとえ俺の妻になっても仕事を続けてもいいといってくれた。
菜々美はその言葉を聞いて、この人と一緒に人生を歩んでもいいと思った。
「あ、あと馬のレバ刺しね。とりあえずそれくらいで」
「はい、ありがとうございます」店員が注文を聞いて下がっていった。
馬のレバ刺しは居酒屋のつまみの中で菜々美が一番好きな酒の肴だった。この点も慧吾と同じだ。食べ物の好みが同じというのは、人生をともに歩んでいくうえでかなり大切なポイントだと菜々美は考えている。
「ねえ、今日さ。ちょっと不思議なことがあったの」
菜々美はテーブルの上で頬杖をついた。
「何だよ不思議なことって。女子トイレに幽霊でも出たのか」
「それってトイレの花子さんじゃん。そんなんじゃなくって――」
そうして菜々美は陽介の入社にまつわる不可解な経緯について話をした。最初のうちは興味なさそうだった慧吾だったが、話が進むにつれてジョッキをテーブルに戻し、真剣な顔で菜々美の話を聞くようになっていた。
菜々美の話をひととおり聞き終えて、慧吾が胸の前で腕を組んだ。立てた右腕の拳に顎を載せる。何かを考えるときの慧吾の癖だった。
「何だそれ、どういうことなんだ」
「でしょ、私も何がどうなっているのかさっぱりわかんなくって」
いつの間にか運ばれてきていたレバ刺しに、慧吾が箸を伸ばした。赤黒く、血の塊のような色をした生肉を唇ではさみ、ちゅるんと吸い込むように食べる。
「オーナー経営者に気に入られて入社が決まるってのは、まあ無くはない話だけど――」咀嚼しながら話した。「そもそも内定した本人が試験を受けていないっていうのはなあ…………」
「面接したのは間違いなく木嵜君本人だって人事部の上司もいってるし、入社の段取りにはまったく問題がないの」
「ふーん」
慧吾は鼻から息を漏らすように答え、ジョッキの中身を呑みほした。すぐに手を挙げ、同じのもうひとつ、と声を上げる。
「私、どうしていいのかわからなくって…………」
菜々美もジョッキを傾けた。ひと息に喋ったので喉が渇いていた。「木嵜君のことを会社に報告して、せっかく出ている内定が取り消しになったら木嵜君に申し訳ないし、だからといってこのまま黙っているのも人事部の人間としては良くないような気がするし」
「その木嵜君ってのは、そのまま入社するつもりなのか」
「そうみたい。こういったらあれだけど、私の大学じゃなかなか粧生堂なんかに入社できないから」
なるほどな、と慧吾がテーブルの上に両ひじをついた。指を組み合わせる。目が鋭くなっているように見えた。「俺の会社さ、入社試験関連のセミナーなんかもやってる。そんなこんなで、いろいろな情報も入ってくる」
「情報? どんな」
「表裏いろいろさ」慧吾がにやりと片側の頬だけをゆるめる。「そして木嵜君の件は、間違いなく裏側の話だな。そうじゃなければ説明がつかない」
「何か不正な方法を使っているってこと?」
まさか、と思ったがすぐに考え直した。「もしそうだったら、木嵜君は内定のことを誰にもいわないはずでしょ」
慧吾が組んだ指のむこうから、菜々美の視線を受け止めていた。すこしのあいだ、お互い何も言わなかった。
「なーんてな」
慧吾が表情を崩し、椅子にもたれた。「ちょっといってみたかっただけさ、実のところは何にもわからねえや」
「えー」菜々美も笑った。「そうなの、一瞬本気にしちゃったじゃない」
「まあ、はっきりいえることはだ――」
焼き鳥の串をつまみあげ、肉を歯ではさんで引き抜く。「あまり深入りすんなよ、ってことだ。どういう裏があるのかはわかんねえけど、ふつうに考えたってヤバいだろ」
「ちょっと何それ。そりゃ私はまだ半人前かもしれないけど、知ってるのに知らないふりするようないい加減なことはできないわよ」
「知らないふりをしろとはいってないだろ。調べるんならあくまでも会社のルールに従って調べろってことだ」
慧吾は椅子から背を離し、真面目な顔になった。
「本気で調べようとしたらお前まで裏側の世界をのぞかなきゃならなくなる。それこそ本末転倒だ。だから深入りすんな、っていってんだ」にこりと笑った。「いちおうお前を心配していってんだぞ」
「あっ、そ。ありがと」
そういって菜美はビールを飲んだ。慧吾の笑顔につられてしまいそうだったので、とっさにジョッキを傾けてごまかした。「お前を心配してる」の言葉にちょっと、どきっとした。
(あれ? こういうのを惚れた弱みっていうのかしら)
菜々美は自分に問いかけながら、黄金色の液体を喉に流しこんだ。
店を出たときは十一時を回っていた。
「これからどうするよ。ウチ来るか?」
のれんをくぐった慧吾が、店の外で待っていた菜々美の前に立った。
「うーん、そうしたいんだけど、今日は止めとく。明日早いんだ」
今日の夕方、突然課長が早朝会議をするといいはじめた。菜々美は慧吾の部屋に泊まるつもりで準備もしていたけれど諦めた。寝不足で手抜きメイクの顔を、課長の目はごまかせても鬼頭さんは見逃さない。
「そうか、大変だな。頑張れよ」
菜々美は慧吾を見上げたまま、うんと頷いた。そのままキスをしたかったけれど、さすがに人目があるので我慢した。
「じゃ、私こっちだから」自分の後ろを指差した。
「おう、じゃあな」
菜々美は身体の向きを変え、脚を前に運んだ。
「菜々美」
すこし歩くと、後ろのほうで慧吾の声が聞こえた。菜々美は立ち止まり、振り返った。自然と笑顔になっていた。本当はまだ帰りたくなかった。
慧吾は店の前に立って菜々美を見ていた。店の中から漏れた灯が、その顔に陰影を作っていた。
慧吾が白い歯を見せて右手を上げた、ゆっくりとその手を左右に振る。
「またね」
菜々美も笑顔をつくり、大きく手を振った。引き留められるのではないかと期待していたので、正直ちょっとがっかりした。
「じゃあね」
そういって身体の向きを戻し、歩きはじめた。
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