第14話
「小田島さん、ちょっといい?」
陽介とのランチを終え、オフォスの席につくなり隣の鬼頭に声をかけられた。はい、と顔を向ける。
「今度の就活フェアに配布するパンフレットの入稿日が、業者のミスで早くなったの。私も手伝うから今日の三時までに原稿を仕上げてくれない?」
「でも鬼頭さんのお仕事は大丈夫なんですか」
「私のほうはまだ余裕があるから大丈夫」にっこり笑った。そういう表情をすると、優しそうに眉尻の下がった目が細くなって、顔の上に鉛筆で波線を描いたみたいになる。菜々美はその顔を見るたび、いつもちょっと癒されていた。
「わかりました」菜々美は壁の時計に目をやった。鬼頭さんが手伝ってくれるのなら何とか間に合うだろう、と思った。
かかって来る電話の対応をしながらどうにか原稿を仕上げた。時計を見るとちょうど三時だった。今の時期、学生からの問い合わせの電話も多く、思ったよりも時間がかかってしまった。鬼頭さんにはいつも助けられているけれど、今回も手伝ってもらわなければとても間に合わなかった。
「お疲れ様、ちょっと休憩しよっか」
鬼頭が椅子から立ち上がり、席から離れた。菜々美も「はい」と後に従った。
粧生堂の本社ビルの各フロアには、リフレッシュルームと呼ばれるちょっとした休憩室がある。ワンマンオーナーである会長の指示で設置されたらしく、業務の緊張を解きほぐし、いったんリフレシュしてからまた仕事に集中するためのスペースだという。
スペースには座りごこちのいいソファがゆったりと間隔をあけて設置され、ところどころに観葉植物が置かれている。今も、ソファにもたれて目をつぶったり、コーヒーを飲んだりと思い思いのスタイルで社員たちが休憩をとっていた。
菜々美と鬼頭はサーバーからコーヒーを取り、中ほどに置かれた丸テーブルの席に隣り合って座った。
「小田島さん、彼氏とはどうなの。うまくいってる?」
鬼頭がホットコーヒーを啜りながら訊いた。
「ええ、まあ絶好調ってところです」菜々美は冗談っぽく返してカップに口をつけた。鬼頭には付き合っている彼の話をしていた。
「彼とは将来の話はしてるの?」
「はい、たぶん結婚すると思います。あ、でも結婚しても会社は辞めるつもりはないです。もっともっと仕事を極めたいんです」
鬼頭が微笑んだ。「へえ、やっぱり小田島さんはたくましいわね」
菜々美は鬼頭に肩を寄せた。自然と口元が緩んでいた。
「鬼頭さんのほうこそ、彼氏とどうなんですか」
「私? 私はまあまあね、いつもと変わらずって感じ」
「え、じゃあじゃあ」菜々美はさらに顔を近づけた。「こんどダブルデートしませんか、私と鬼頭さんもこんなに相性がいいんですから、きっと彼氏同士も合うと思うんです」
菜々美に気圧されたように鬼頭が苦笑した。
「…………彼はけっこう人見知りな人で、そういうの苦手なの。ごめんね」
「そうですかー残念」
菜々美は身体を投げ出すように、椅子に背を伸ばした。そのさまが可笑しかったのか、鬼頭がふふっ、と白い歯を見せた。
「あ、そうだ」
菜々美は椅子から背を離した。「そういえば鬼頭さん、もうウチって内定を出してるんですか」
「何よ突然に」鬼頭がカップを口元に近づけた手を止めた。
菜々美はまわりをそれとなく見回した。丸テーブルをはさんだ正面の椅子に、総務課の男性社員が座っていた。腕を胸の前で組み、口を半開きにした顔で目をつぶっている。会話を聞かれそうな場所に他に人はいなかった。
「私の大学の後輩で、ウチから内定をもらったっていってる学生がいるんです。木嵜陽介君っていうんですけど、鬼頭さん記憶にないですか」声を低くしていった。
「知ってるわ、よく憶えてる」
鬼頭が笑みを大きくして、横顔のまま頷いた。「とっても印象的だったもの、あの子」
「えっ、顔も見てるんですか」
思わず大きな声を上げて、慌てて手で口を押えた。
「そうよ、私変なこといってる?」
「ああ…………いえ」
菜々美は胸の前で手をふった。
陽介は入社試験を受けていないといっていた。それなのに、鬼頭さんは陽介の顔を見ているという。どういうことなのだろうか――。
「あの、木嵜君は何でこんな早く内定が出てるんでしょうか。ちょっと普通では考えられないと思うんですけど」
「木嵜君はね…………」
鬼頭が思い出し笑いをするように頬を緩めた。「会社説明会の質問時間に、『粧生堂は会長の息子じゃないと社長になれないのか』って訊いたのよ」
「えっ、あの陽介君が」
菜々美の言葉に、鬼頭が不思議そうな顔を向け「そうよ」と頷いた。
粧生堂は全世界に支社を持ち、従業員が一万人を超える大企業だ。けれども経営は創業家の一族が代々行っていて、会長は創業者から三代目、社長は会長の息子だ。社長の息子も本社営業部の課長を二十代後半で勤めていて、社内では五代目の後継者というのが当たり前のように思われている。
一部上場企業にもかかわらず会社の私物化は明らかなのだが、社内でそれに異を唱える者もおらず、むしろタブーとされている。その点を、陽介はよりによって学生が集まる会社説明会の場で指摘したのだ。菜々美からすればほとんどヤケクソとしか思えない。
でも、あの小心者の陽介君が本当にそんなことをするのだろうか――普段の陽介を知る菜々美には、鬼頭の話の内容にぬぐいきれない違和感があった。
「でも、何でそんな質問をしたのに内定なんですか」
「会長がね、木嵜君を気に入っちゃったのよ」愉快そうに鬼頭がいった。「『粧生堂も大企業になって大人しい優等生ばかりだ、こういう向こう見ずな人材が必要だ』っていって、説明会が終わってからすぐに木嵜君を呼んでね。その場で会長面接よ」
「それで内定ですか…………」
「そういうこと、私も初めての経験だわ」ふふっ、と笑った。「まるでドラマみたい」
菜々美の感想も鬼頭と同じだった。本当にそんなことが現実に起こるものなのがと、いまだに半信半疑だった。
「あの…………木嵜君は会長との面接のときどんな感じでしたか」
「すごく落ちついていたわよ。口数はそんなに多くないけど、自信に溢れてる感じで、かといって生意気って感じでもないし」
違う、と思った。菜々美の持っている陽介の印象とは正反対で、それはさっき会ったときにも変わらなかった。
ひょっとしたら陽介は面接の練習を繰り返して、いつもと違う印象を身に付けたのだろうか…………。でもそんな付け焼刃的な対応は人事のプロである鬼頭や課長には通じないし、なにより会長なら瞬時に見抜いてしまうはずだ。
それとも――。
考えを巡らせている菜々美の顔を、鬼頭がじっと見つめてきた。
「なに? 小田島さん、後輩が異例の内定を勝ち取ったのに、あまり嬉しそうじゃないわね」
「いえいえ」菜々美は慌てて否定した。「会長と面接したなんて話を聞いてなかったものですから、ちょっとびっくりしちゃって」
「そうなの」鬼頭が白い歯を見せながら立ち上がった。「そろそろ戻りましょうか」
はい、と答えて菜々美はコーヒーの残りを飲んだ。鬼頭の後に続く。
「鬼頭さん、木嵜君の履歴書のデータを見せてもらってもいいでしょうか」
オフィスに続く廊下を歩きながらいった。履歴書には陽介の顔写真が貼ってあるはずだ。最後の確認のためにその写真を見ておきたかった。
「それはかまわないけれど…………」鬼頭が一瞬だけ怪訝そうな顔をして、すぐににやにやと口元を緩める。「ひょっとして小田島さん、木嵜君と昔に何かあったとか?」
「いやだ、冗談いわないでくださいよ」
菜々美は鬼頭の腕を軽くつかんだ。
「そうよねー、将来を誓った素敵な彼がいるもんねー」
「それはお互いさまだと思います」
オフィスに戻り、応募者のエントリーシートを保存してあるPCで陽介のデータを確認した。このPCのログインパスワードは人事部でも限られた人間しか知らされておらず、新人の菜々美は自由に見ることができない。今も鬼頭にログインしてもらい、データにアクセスしてから菜々美はPCの前に呼ばれた。
「ほら、この子。間違いないでしょ」
鬼頭が画面を指さした。
菜々美は画面に顔を近づける。癖のない髪、色白の肌、二重まぶたの大きな目。ひとつひとつのパーツは整っているのだけれど、全体的にみると地味な印象の男性が視線をすこし上に向けて写っている。
間違いなく木嵜陽介の顔だった。シートに記載されている住所も電話番号も合っている。
菜々美は思わずうなり声を上げていた。
これはどういうことなのだろう――。
エントリーシートは間違いなく陽介本人のもの、鬼頭さんも陽介と会っている、でも肝心の陽介本人が採用試験を受けていないといっている。
まさか会長との面接を、採用面接と思わずに単なるおしゃべりと思ったとか? だから陽介本人には採用面接を受けたという自覚がないとか?
考えて、有り得ないと思った。いくらすこし頼りない陽介といっても、そこまでほーっとはしていない。
菜々美は知っていた。陽介は決して表に出さないが、実はとても頭がいい。すべての行動は、いっけんほーっとしているようでも深い考えのもとに実行されていることを。
(陽介君、だったら、これにはどういう意味があるの…………)
菜々美はPCの画面に表示された陽介の顔写真を見つめながら思った。
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