第13話
「予約している小田島ですけど」
菜々美は店員に声をかけた。店を入った右手にガラスケースが設置されていて、この店の名物になっている小籠包がお持ち帰り用に販売されている。
店員に案内されて左手のレストランに進んだ。真ん中にいくつも円卓が並んでいて、壁際の席は二人掛けのテーブルになっていた。
店内は満席だった。ランチタイムは予約をしておかないと、人気のこの店に入れない。
いちばん端の二人掛けの席に、店内に背中を向けた木嵜陽介の横顔が見えた。背中を丸め、顔を俯かせてスマホを見ている。
こちらです、と店員に促され陽介が座っているテーブルに進んだ。まだ陽介は菜々美に気が付いていない。
「お待たせ」
いいながら、奥の席に座った。同時に陽介が顔を上げ、びっくりしたように目を丸くした。紺色のスーツにきちんとネクタイを締めている。テーブルの上にはお茶の入った急須と小さな茶碗が置いてあり、小皿に載った箸とレンゲがセッティングされていた。
「あ、ナミ先輩」
「似合ってるじゃない、そのスーツ。どう? 就活頑張ってる?」
そういってメニューを手に取り店員に手を上げた。小籠包のランチセットを二つ注文する。いつもは自宅で作ってきたお弁当で昼食を済ませているのだけれど、後輩にすこしはいい顔をしたくって、この店を予約しておいた。ランチで一人二千円は正直なところ、ちょっと痛い。大手企業の粧生堂の社員といっても、新人の給料はびっくりするくらい安いのだ。
昨日、陽介から久しぶりにLINEのメッセージが入った。ちょっと相談したいことがあるという。陽介とは学生時代、家が近いこともあってよく一緒に大学にいった。今でも菜々美は住まいを変えていないが、就職してから実際に顔を見るのはもちろんメッセージを受け取ることもなかった。学生と社会人とでは生活のペースも違うし、陽介も遠慮しているのだろうと菜々美は考えていた。
「いやあ、それが…………ちょっと卒業できるかどうかも怪しくって」
「えっ、そうなの」
そういえば陽介は真面目そうな見かけによらず、授業はサボりぎみで成績も毎年ぎりぎりだと誰かから聞いたのを思い出した。「何で。どうしてそうなっちゃったの」
「まあ、全部自分が悪いっていうか、あんまり授業も真面目に出席してなかったんで」
「アルバイトに忙しくって勉強がそっちのけになったとかじゃないの?」
「アルバイトはほとんどしてないんです…………」
「じゃあ何か大学以外で打ち込んでるものがあったとか」
気が付くと、面接官のような口調になっているのに気が付いた。
陽介がうーんと首を傾け、ななめ上に目を上げた。「…………そういうのもないですね」
「じゃあ、単にサボってたってこと?」
「まあ、簡単にいえば」陽介が飄々とした感じで答える。
菜々美は思わず吹き出しそうになった。改めて学生時代の思い出が胸の中によみがえってきた。
陽介と大学で出会ったのは入学式の当日だった。新入生だった陽介を菜々美がサークルに勧誘した。あのときも陽介は今と同じような紺のスーツにネクタイ姿だった。
菜々美は強引に陽介の腕を引っ張ってサークルの入会ブースにまで連れていった。菜々美が強く引っ張り過ぎたからか、陽介のシャツの袖のボタンが両方とも取れてしまい、結局菜々美がボタンを縫うことになってしまった。
けれどもボタンを縫っているあいだ、陽介はサークルが設置した入会ブースから動けなかった。だから他の上級生に口説かれて、なかば無理矢理に入会を決めさせられたのだった。
まるで昨日のことのようにはっきりと憶えている。
菜々美は意識して厳しい表情を作り、胸の前で腕を組んだ。社会人の先輩らしいところを見せなければと考えた。
「陽介君、それってちょっと良くないよ。留年が悪いっていってるんじゃないの。けれどもどうして留年をしたのか、そして留年のあいだにどう過ごしていたのか、そこを会社の人事担当はきっちりと確認するから。何もしていませんじゃ、どこも採用してくれないよ」
「やっぱりそうですか、そうですよねえ」
わかったようなわかっていないような顔をして、陽介はにこにこと微笑んでいる。
思わずつられて微笑みそうになるのを、菜々美はぐっとこらえた。
「だからもしも、陽介君がウチに入りたいと思っているなら、そういうところをきちんと答えられるようにしておかないとダメだよ」
陽介の目的は見当がついていた。菜々美が粧生堂の人事部に所属していることはサークルの後輩のほとんどが知っている。二流大学の東照大学からは異例のことだった。
大学の後輩たちは最初から諦めているのか、菜々美の所に会社の話を聞きに来る学生はいなかった。菜々美が初めて訪問を受ける大学の後輩が陽介だった。
「やっぱり粧生堂の入社は難しいですか」
「そりゃ簡単じゃないわよ。全国の優秀な学生が集まってくるし、筆記試験と面接は四次まであるし」そう口にしてから、菜々美はちょっと後悔した。何となく自慢しているように自分でも聞こえたからだった。
「へーえ」
けれども陽介にはそんな言葉のニュアンスが伝わっていないようだった。何か珍しいものでも見るような目をして菜々美をじっと見ている。
食事が運ばれてきた。小籠包の入った丸い竹かごと小皿、チャーハンがセットになっている。思っていた以上にカロリーが高そうだった。今日の晩ごはんは控えめにしようと菜々美は思った。
陽介がいたたきます、と両手を合わせて箸で小籠包をつまんだ。レンゲの上に置いて口に入れたとたん、「熱ちっ」と顔をしかめる。
「そのまま口に入れちゃダメよ、やけどしちゃうから」
菜々美はレンゲの上に置いた小籠包を箸で割った。中身を食べてから溢れた肉汁をすする。肉のおいしさが口の中に広がっていった。思わず目をつぶり「おいしーい」と口にしていた。今まで食べた小籠包の中で一番だった。
「ねえ陽介君」
「何ですか」菜々美の真似をして、レンゲに置いた小籠包を箸で割りながら陽介が答えた。
「君が相談したいことって何だっけ」
「あ、そうでした」陽介がレンゲと箸をテーブルに置いた。菜々美にまっすぐ目を向けて来る。
「実は僕、粧生堂から内定が出たんです」
えっ、と菜々美は声を上げた。箸を持つ手を止め、あらためて陽介の顔を見る。陽介は怪訝そうな顔をして菜々美を見ていた。
「やっぱりナミ先輩は知らないんですね」
「知らない、全然聞いてない。っていうか、ウチはまだ内定なんて誰にも出してないと思うけど…………」。
「この前、電話があったんです。『木嵜陽介さん、内定です』って」
「それ、ウチの誰から電話があったの」
「女の人でしたよ、人事部の鬼頭さんっていってました」
鬼頭という社員は確かに人事部に所属している。七年先輩で菜々美の教育係でもあった。右も左もわからなかった菜々美に嫌な顔ひとつ見せず、いろいろ指導してくれる優しい先輩社員だ。
菜々美も皿の上に箸を置き、頭を下げた。
「ごめん。実は私、偉そうなことばっかりいってたけど、まだ新人扱いで入社試験の実務にはほとんど関われていないの。だから陽介君に内定が出てるなんて話は全然知らなかった」
「あっ、ナミ先輩、あやまってもらわなくってもいいんです。僕が相談したいっていうのは内定が出てるってことじゃないんです」
菜々美は顔を上げた。
「じゃあ何なの」
「実は僕…………」
陽介が椅子に浅く座りなおし、テーブルの上で指を組んだ。すこしまわりを気にするような仕草をする。「粧生堂の採用試験を受けてないんです」
菜々美は陽介をじっと見つめたまま、眉をひそめた。怪訝な気持ちを顔に出したつもりだった。
「ちょっと陽介君、何をいっているの…………」
「僕も何かの間違いじゃないかと思ったんです。だからネットで粧生堂の代表電話を調べて電話してみたんです。人事部に内線が行って、そしたらやっぱり鬼頭さんが出て、『内定は間違いありません』って」
「そのときに入社試験を受けていないって話はしたの」
「してません。それで内定が取り消しになるのが怖かったんで…………でも、やっぱり僕の内定は間違いがないようなんです」陽介がテーブルの上に身を乗り出してきた。「ナミ先輩、これはどういうことなんでしょうか」
菜々美は陽介の顔をじっと見つめた。陽介もじっと菜々美の視線を受け止めている。真剣な顔だった。
こういう場合、まっさきに考えられるのは縁故入社だ。けれども今の時期に縁故で入社が決まるなど、創業者一族の親族くらいで入社が当たり前と社内で受け止められている人間だけだ。
「ねえ、陽介君。君ってウチの会社の経営者連中に親戚とかいる?」
「いやあ、いないと思いますけど…………」
「お父さんはどんな仕事をしてるの? ドラッグストアの経営者とか、百貨店の社長とか」
陽介が真剣な顔をほころばせ、胸の前で両手をふった。
「たぶんそういうのじゃないと思います。今度の件に僕の両親はまったく関係ないですよ」
「そうなの…………」
「ほら、後輩で本橋大作って憶えてませんか。彼にも同じことを訊かれたんです。それで僕も実家に電話してみました。そしたら本人に無断でそんなことをして何の意味があるんだ、って逆に叱られちゃいました」苦々しげに笑った。「確かにそうですよね。内定をもらっても僕がことわる可能性だってあるわけだから」
「断るつもりなの?」
「まさか、せっかくもらった内定なのに。でも――」陽介がレンゲを手に取りチャーハンを口に運んだ。「ひょっとしたらナミ先輩は粧生堂の人事部にいるから、僕の内定が決まった経緯を知ってるんじゃないかな、と思ったんです」
「経緯を確認することはできると思うけど…………」
菜々美も箸を手に取った。小皿の揚げパンをつまんでひとくち食べる。
「確認してもらってもいいですか」陽介は顔を上げず、チャーハンを食べながらいった。
「わかった」
それから何となく会話がとぎれた。しばらくのあいだ、二人とも無言で食事を続けた。
先に口を開いたのは陽介のほうだった。
「ナミ先輩って、実家は名古屋でしたっけ」
急須のウーロン茶を自分と菜々美の茶碗に注ぎながら訊いた。
「市内じゃないけどね。本当は弥富市っていうところなんだけど、そういっても誰も知らないから名古屋っていってる」
答えてから茶碗に口をつけた。ランチはかなりのボリュームだった。チャーハンは全部食べきれず残してしまった。
「きょうだいとかいるんですか」
「うん妹がね。私がお姉ちゃん」
「ひとり?」
「本当は私をいれて三人なんだけど、真ん中の妹が事故で亡くなっちゃって」このことを誰かに話したのは初めてだった。
あっ、と陽介が口に手をやった。「すいません」
「いいのよ、昔のことだから」菜々美は笑顔を作って顔の前で手をふった。「陽介君は? きょうだいはいるの?」
その質問に陽介が顔をうつむかせた。唇を噛んでいる。菜々美はその表情をじっと見つめた。
やがて陽介が顔を上げた。何かを思い詰めたように真剣な顔をしている。
「菜々美さん、前から言おうと思ってたんですけど――」言葉を区切り、菜々美をまっすぐ見つめてくる。ナミ先輩が菜々美さんになっていた。
「どうしたの、急に真剣な顔になっちゃって」
菜々美は手にした茶碗を戻した。背筋を伸ばす。何となくそういう態度で聞かなければならないような気がした。
「僕と付き合ってもらえないでしょうか。もちろん友達とかじゃなくって…………」
「なにそれ、全然話がつながってないんだけど」
笑いながらいったが、陽介の表情は変わらなかった。
菜々美は椅子にすわりなおした。まっすぐ陽介を見つめる。
「彼氏、彼女として?」
陽介が無言でうなずいた。
菜々美はすこしのあいだ、その顔を見つめた。そしてにっこりと笑顔を作った。陽介もつられたように微笑む。
「ごめんね陽介君。気持ちはとっても嬉しいんだけど、今お付き合いしている人がいるの」
陽介が自分に好意を持っていることを、菜々美は薄々気が付いていた。
久しぶりに陽介から連絡があったとき、感じるものがあった。だから、もし陽介が告白してきたら、付き合っている人がいるとはっきりと伝えようと決めていた
陽介が肩をがっくりと落とした。下を向き「ですよねー」とため息をはく。
でも、すぐに顔を上げ、「どんな人なんですか」と訊いてきた。けっこうメンタルが強いな、などと菜々美は思った。
「小さな会社なんだけど、教育関係のセミナーを運営してるの。もう二人で将来の話もしてて、いちおう私もその会社に投資してるんだけど」
「じゃあ先々はその人と結婚するんですか」
「まあ、そうね。そのつもり…………貯金を全額投資しちゃったし、そうしてもらわないと困るんだけど」
「大丈夫なんですか」
「何が?」
「だって…………」陽介が上目つかいに菜々美を見た。「万が一、その会社が倒産しちゃったりしたらどうするんですか」冗談ぽくいって笑った。
「それは投資するときから覚悟のうえよ。それにどうせ二人のお金になるんだから、そうなったときはそうなったときでしょ」
「そうですか」
あからさまにがっかりした顔をして、陽介がいった。
「ごめんね、でもありがと」
菜々美はテーブルの上の陽介の手に、自分の手をそっと重ねた。
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