第9話

「奥さん、もういちど確認をさせてください。亜沙美ちゃんを見つけてから、あなたはどうされたのですか」

「それは…………」

 絵美がテーブルに目をふせた。「ですから、よく憶えていなくって…………」

「そうですか」

 石原は小さく息を吐き、ソファにもたれた。くだけた雰囲気を出すためだった。

「ではすこし話を変えましょう。倉庫から離れた庭の中で、ビニール袋に入った男の子の衣服が発見されました。その衣服には大量の血がついていました。さっきお見せした靴もビニール袋の中に入っていたものです。血痕は今、鑑識が分析していますが、すぐに結果が出るでしょう」

 石原はいったん言葉を区切り、じっと絵美の反応をうかがった。

「あ…………」

 絵美が顔を上げた。口元に当てた指が震え、大きな目に涙がたまった。唇の端が下がり、鼻の横にしわが刻まれすこしずつ美しい顔が歪んでいく。

「靴は旦那さんが間違いなく直人君のものだと証言しています。もちろん我々は旦那さんの証言の裏も取るつもりです」

 石原は再び手帳を開き、目を落とした。「現場からは凶器と思われる大型のナイフと、のこぎりも発見されています。そこに付着していた指紋も現在分析中です。指紋の身元が判明すれば、ほぼ決定的な証拠になりますな」

 絵美は深くうなだれ、肩を震わせていた。揃えた膝の上に載せた拳が強く握られていた。

「奥さん」

 声をいちだん低くしていった。「私はビニール袋に入っていた服は直人君のものだと考えています。そして、それをあの場に置いたのはあなただと考えている。あの服は直人君が犯行時に着ていたものですね」

 突然、絵美がわあっと声を上げてソファからくずれ落ちた。テーブルに突っ伏して大声で泣きはじめる。

(やれやれ、お嬢さん育ちは手間がかかるな)

 石原は隣の河合に苦笑した。河合も鼻の横を掻きながら小さく頷いた。

 また絵美の泣き声を、ふたりして聞く羽目になった。


 絵美の嗚咽と肩の震えがおさまってきた。

「奥さん、話を続けてもいいですか」

 石原はできるだけ優しい声で、うつむいている絵美に声をかけた。頭が上下に動く。続けてもいいと理解した。

「では――」

 質問をしようと口を開いたところで、突然絵美が顔を上げた。その顔に強い意志がにじんでいるのを、目が合うと同時に理解した。

 石原はとっさに口をつぐんだ。

「私がやりました…………」正面を向いたまま、絵美がいった。

「何をですか」

「直人が着替えた服をビニール袋につめて、庭に隠したのは私です」

「そうですか」

 表情を変えずに頷いた。前かがみになって脚のあいだで指を組む。そうしているあいだも、決して絵美から視線をそらさなかった。「亜沙美ちゃんを発見した後のことを、順を追って話していただけませんか」

 石原の言葉に、絵美は抑えていたものをいっきに吐き出すように話しはじめた。

 亜沙美の遺体を倉庫で見つけた直後、全身血だらけの直人が倉庫の外に立っていた。その姿を見た絵美は、亜沙美を殺したのは直人だと直感したという。

 何とかしなければならない――。

 絵美は直人の犯罪を隠さねばならないと、とっさに思った。すぐに屋敷にとって返し、タンスから直人の洋服と浴室からバスタオル、キッチンからビニール袋を持って倉庫に戻った。直人の顔や手に付いた血をタオルでぬぐい、その場で着替えさせた。脱がせた服はビニール袋に丸めて押しこんだ。

 そうして普段の直人の姿にもどったところで、絵美は我に返った。周りに視線を巡らせる。朝日があたりを照らしている。樹々のあいだから鳥のさえずりが聞こえてくる。

 夫がそろそろ起きてくる時間だ、と思った。

 ビニール袋を屋敷に持っていくことはできない。血の臭いが強すぎる。絵美は直人に先に屋敷に戻っているようにいい、森の中に入った。

 ビニール袋をかかえながら夜露に揺れた下草を踏んだ。樹と樹のあいだを走った。

 早く、早く。どこか隠す場所を見つけなければ――必死だった。

 ふと見た先に、こんもりと低い樹が茂った場所があった。日当たりが悪く、ほかの場所よりも薄暗い。絵美はその場所をめがけてビニール袋を投げた。

 落ちた場所も確認せずに身体の向きを変え、屋敷に戻った。誰かに発見されるとか、他にもっといい方法はなかったのかとは考えなかった。とにかく夫が目を覚ます前に戻らなければ、このときはそれだけを考えていた。

 屋敷に戻ると忠直はまだ眠っていた。

 直人は自分の部屋でテレビゲームをしていた。まるでつい今しがた妹を殺したとは思えないほど、普段と変わらぬ様子だった。だが絵美には亜沙美を殺したのは直人だとの確信があった。

 直人の部屋を出ると、ちょうど忠直が寝室からあくびをして出てきた。

 忠直は絵美の顔を見るなり眉をひそめた。そして絵美の腕を見て目を見開いた。

 絵美はそのときになって初めて、自分の両方の腕が亜沙美の血で真っ赤に染まっているのを思い出した。直人のことばかりに気がいって、自分のことまで気が回っていなかった。

 絵美は忠直から問い詰められ、亜沙美が倉庫で死んでいることを話した。だが直人が殺したとは決して口にしなかった――。

「あとは夫が一一〇番をして、皆さんがいらっしゃったわけです…………」

 絵美はひと息に話して、大きく息を吐いた。

「ありがとうございました」

 石原は頭を下げた。「今の話の中ですこし確認させていただきたい点があるのですが、よろしいですか」

「…………はい」

「亜沙美ちゃんを殺したのは直人君だと直感したのは、なぜですか。たとえ直人君が血まみれだったとしても、殺されたあとの亜沙美ちゃんを抱いてしまったからだ、とは考えなかったんですか」

「それは…………」

 絵美が唇を噛んで、視線を左右にさまよわせた。やがて何かを決意したように前を向いた。

「私は…………直人が怖かったんです。いつかはこういうことになるのではないかと、心のどこかで考えていました」

 そして絵美は直人の幼い頃からの異常な出来事を語った。何かに取りつかれたように早口で喋る。つい昨日も妹のクリスマスプレゼントをずたずたに切り裂き、それをとがめた忠直の腕時計をトイレに捨てたという。

 驚いたことに直人の異常行動は、わずか一歳のときから始まっていたらしい。

「お友達とささいなことで喧嘩をしたんです。そのときはすぐに収まったんですが、直人にトイレの練習をさせて私がちょっと目を離した隙に、そのお友達のところに行っておしっこをかけたんです」

「…………それは、どういう意味があるんですか」

「復讐なんです」

 絵美が自分の身体を抱きかかえるように両方の肩をつかんだ。「直人は自分への仕打ちを決して忘れないんです。ずっと憶えていて、頃合いを見はからって復讐するんです」そういってぶるぶると肩を震わせた。

「なるほど…………」

 石原は絵美の話を、思い過ごしだと否定できなかった。

 確かに直人には何かがある。それは石原も実感していた。その何かとは、得体の知れない闇につながっているように思われた。

「それでは亜沙美ちゃんの件も、復讐だとお考えですか」

「刑事さん……直人の手首の内側の痣を見ていますか」

 絵美がテーブルの上を見つめたままいった。唐突な言葉に石原は戸惑った。

「ああ……いえ、それが何か」

 たしか星の形をした特徴的な痣だった。石原は気が付いていたが言葉を濁した。

「直人はきっと、あの痣を気にしているんです。何で自分にはこんな醜い痣があるのに、亜沙美にはないんだって思っているんです」

 絵美が二の腕を摩りながら続けた。「だから、直人は亜沙美の手首を切り取ったんだと思います……復讐なんです。亜沙美と直人を産んだ私への」

「なるほど」

 母親ならではの意見に、石原は大きく頷いた。手首を切り落とした理由にはたしかにそういった心理も働いたのかもしれない。

 だが――

 直人は亜沙美ちゃんを殺した理由を「楽しいから」といった。

 復讐が「楽しく」て、結果として殺してしまったのか、それともただ殺すことが「楽しい」のかは、わからない。

 はっきりといえることは、直人が「楽しさ」を感じるために亜沙美ちゃんを殺したということだ。そこに憎しみや怒りといった普通の殺人事件の動機は、あまりないように思われた。石原の実感としては、これは絵美のいうような復讐ではなく快楽殺人だった。

 だが石原はその考えを絵美に話すつもりはなかった。少なくとも今、これ以上の絶望と恐怖を母親に与える必要はないと判断した。


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