第8話

 一時間後、栗山がやってきた。驚いたことに捜査一課長の白濱も一緒だった。

 直人への聴取は栗山と部下の甲斐に引き継いだ。石原は母親の絵美の聴取をすることになった。白濱は別室で直人の父親の忠直と打ち合わせをしている。

「主任、どうして直人君の聞き取りを係長に渡したんですか。ネタをつかんだのは主任じゃないですか」

 直人の部屋から一階に向かいながら河合がいった。

「係長は手柄を横取りするような人じゃねえよ。この件は上層部が深く関わってくるのは目に見えてる。できるだけ早い段階で幹部も引き込んどいたほうがいいんだよ」

「なーるほど。主任なりの保身ってわけですか」

「人聞きが悪いな、おい。ま、そういう側面もある」

「勉強になります」

 階段を下りて居間に入った。ソファには絵美が座っていた。向かいには付き添い役の婦人警官が座っている。石原たちをみとめて婦人警官がソファから立ち上がった。

「どうだ」

 石原は小声で訊いた。婦人警官が無言で顔を横に振る。相変わらず反応がないという意味だろう。

 母親の絵美は事件が発生してから言葉らしい言葉を発していない。唯一、直人の靴を見たときに錯乱したように取り乱した姿を見せただけだった。

 亜沙美ちゃんの遺体を発見したのは母親の絵美だ。つまり警察は、亜沙美ちゃんが発見された前後の状況をいまだに把握できていない。

 石原は絵美の正面に立ち、様子を観察した。

 絵美は最初に見た時とまったく同じ姿勢で固まっていた。目はうつろで宙の一点を見つめたままなのも変わらない。

「ここはもういい、聴取が終わったらまた呼ぶから」

 石原の指示を受けた婦人警官が、いち礼して居間を出ていった。

「奥さん、ちょっとお話をしたいのですがよろしいですか」

 すこし大きな声で訊いた。

 石原の問いかけにも絵美の反応はなかった。しばらく顔を見ていても、視線が揺らぐ気配もない。

 河合が絵美に近づき耳元に顔を寄せた。「剣崎絵美さん、聞こえますか。ちょっとお話をお聞かせいただきたいんですけど、よろしいですかね」

 耳の遠い老人に語りかけるように、ひと言ひと言ゆっくりと大きな声で訊いた。

 やはり絵美の反応はなかった。

 だが、ここまでは予想どおりだった。

「ま、ひとまず座るか」

 石原は河合にいい、向かいのソファに腰を下ろした。河合も隣に座る。

「主任、どうしますか」

 河合が肩を寄せてきて小声で訊いた。

「まあ、どうにかするさ」

 石原は前かがみになって開いた膝の上に肘を載せた。

「奥さん、直人君が全部話してくれました。とても残念ですが、亜沙美ちゃんを殺したのは直人君です」

 石原の言葉に、初めて絵美が反応した。ぴくりと片方の眉が動く。口を半開きにしたまま、宙に上げていた黒目だけがゆっくりと動き始めた。

 石原と目が合ったところで、黒目の動きが止まった。消えていた表情がすこしづつもどってくる。

 やがて絵美の目に芯が入ったのがわかった。

「そんな…………」ひと言、口にした。

「ようやく話していただけましたね」

 石原は意識して笑みを作った。絵美の意識をこちらに向けるには、最初に直人のことを話すしかないと考えていた。

 絵美は姿勢を戻し、背筋を伸ばした。揃えた膝の上で手を重ねる。つい今しがたまでの魂が抜けたような状態が嘘のようだった。

「刑事さん、本当に直人はそんなことをいったんですか」

「残念ながら本当のことです」

「嘘よ」

 突然、絵美が叫んだ。「あの子はまだ八歳なのよ、そんな恐ろしいことを、恐ろしいこと…………」

 声はすこしずつ小さくなっていった。語尾はほとんど聞こえず、ただ同じ言葉を口の中で繰り返しているだけのように見えた。

 石原は上着からハンカチを取り出し、テーブルの上を前にすべらせた。「すいません」と絵美が手に取り、目頭を押さえる。

「私も嘘であって欲しいと考えています。しかし直人君がやっていないと証明するためには、奥さんが亜沙美ちゃんを発見したときの状況をどうしても把握しておかなければならんのです。お辛いとは思いますが、ご協力ください」石原は頭を下げた。隣で河合も頭を下げる。

「…………わかりました」

 絵美がようやく石原の質問に答えはじめた。

 もちろん自分から話すというわけではなく、問われたことに対してひと言ふた言返すくらいだった。こみ上げてくるものにところどころ詰まりながら、必死に言葉を絞り出しいるように見えた。

「それで倉庫の前までいったのですね」

「…………そうです」時間はたぶん朝の五時過ぎだろうといった。

「それで中に入った、と」

「そうです――」

 口にしてから絵美の目に涙があふれた。やがて、肩を震わせ声を上げて泣いた。

 石原はソファに背をあずけ、その様子を見守った。長くなるのは覚悟していた。こうなったら泣きやむのを待つほかないと思った。

 しばらくたってから、ようやく絵美が顔を上げた。目と鼻が真っ赤に充血していた。

「すいませんでした…………どうぞ続けてください」

「では続けさせていただきます」

 それから石原はあえて事務的に質問を続けた。こういう場面で優しい言葉をかけるのは逆効果だと経験からわかっていた。

 絵美も質問に淡々と答えた。ひとしきり泣いてすこし気分が落ち着いたようだった。

「亜沙美ちゃんのお腹の中からビニール製の人形が発見されています」

 石原が上着のポケットから写真を取り出した。テーブルの上を滑らせて絵美の前に置く。「この人形なのですが、見覚えがありますか」

 遺体が発見されたとき、人形は腹の中奥深くに押し込まれており、外からはほとんど見えない状況だったという。だからたぶん絵美は人形を見ていないし、人形が押し込まれていたことすら知らない可能性があった。

 絵美は青い顔をしてテーブルに手を伸ばした。震える指で写真を取り上げて「ひっ」と声を上げた。

「…………これが、亜沙美の中に」口元に手をやり、震える声でいった。「そんな恐ろしいことを…………」

 写真には亜沙美の体内から取り出された直後の人形が写っていた。服はつけておらず、大きな頭で寸胴ぎみの赤ちゃんのような体形の人形だった。

 元は金髪だと思われる長い髪も、固まった血がこびりついて赤黒く変色している。ビー玉のような青く透き通った目だけが、血の赤との対比で際立っていた。

「どうですか」

 石原は縛りつけられたように写真を見ている絵美に訊いた。手に持った写真がぶるぶると震えている。

「これは亜沙美のものです…………失くしたと思っていたんですけど、どこから…………」

 絵美の答は夫の忠直の言葉と一致していた。亜沙美の実の両親から贈られたもので、剣崎家に来たときからずっと持ち歩いていた。ところがいつの間にか失くなっていて、探しても見つからなかったとの答も同じだった。

 石原はひとつ頷いた。

「ありがとうございます。結構です」手を伸ばし絵美から写真を受け取った。上着のポケットに戻す。「それで亜沙美さんを発見した後は、どうされたんですか」

「それは…………もうどうしていいのかわからなかったので、しばらくその場にいたような気がします。ごめんなさい、私も気が動転してよく思い出せないんです」

「そうですか…………もうすこし具体的にお訊きしましょう」

 石原は手帳を取り出しページを開いた。絵美の口数が、最初に比べて増えているのを感じとっていた。

「記録によれば通報をいただいたのは朝の七時三十八分。ご主人が通報をされたと確認が取れています。今の話をお聞きする限りでは、亜沙美ちゃんを奥さんが発見したのが朝の五時前後、それから二時間以上過ぎてから通報されています。その間は何をなさっていたのですか」

 この点は夫の忠直からも確認ができなかった。忠直は妻から話を聞いて現場を確認し、すぐに通報をしたと答えている。

 石原は絵美に対して、すでにある仮説を立てていた。そして話を聞くうちに、その仮説は正しいのではないかと思いはじめていた。

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