第7話
直人の部屋の前に制服の警官が立っていた。
石原はドアをノックした。「はい」と直人の声が聞こえた。
「直人君、ちょっと話をしたいんだ。いいかな」
「どなたですか」
「さっき玄関のところで会ったよね。警察の石原というんだ」
しばらく間があって、ドアが内側に開いた。直人がじっと石原を見上げていた。警戒をしているというより何の感情も浮かんでいないといったほうがふさわしい顔だった。さきほど玄関で話したときの、ほがらかな表情とは別人だった。
「どうぞ」
直人が小さな身体をしりぞかせ、部屋の中に左手を広げた。仕草も大人びている。一瞬だけだが、シャツの袖が上がって手首に黒い痣のようなものが見えた。
「お邪魔するよ」
いいながら石原は直人の部屋に入った。河合も後に続く。
十畳ほどの部屋は片付いていた。暖房が効いている。日当たりのよい部屋で、天井までとどく大きな窓から、レースのカーテン越しに明るい日差しがたっぷりと降り注いでいた。
左側にベッドと勉強机。右側には本棚。ビデオデッキの棚の上にテレビが載っている。おもちゃ箱やポスターのたぐいはなく、小学校低学年の子どもの部屋にしてはずいぶん大人びているように思われた。
本棚のいちばん下の段に虫かごが置いてあるのが目に入った。
石原はようやく部屋の中に子どもらしいものを見つけて、すこしほっとした気分になった。虫かごの中にはカブトムシの雄と雌が入っている。
「へえ、直人君。虫が好きなのかい」
いいながら本棚に近づき、床に尻をつけて虫かごの前に座った。聴取に入る前にすこしでも直人とコミュニケーションを取っておきたかった。
「虫は好きです」
直人の返事を背中で聞きながら、石原は虫かごに顔を近づけた。木が腐ったようなカブトムシ独特のにおいがした。真冬にカブトムシの成虫が飼えるものなのか。
(何だ、これ…………)
石原は怪訝な思いが顔に出た。眉をひそめる。
「直人君、この虫は何でこうなんだ」二匹のカブトムシには羽がなかった。
「むしったんです。虫を飼うときはいつもそうしてます」
「どうして」石原は振り返った。
「だって、そうしておかないと逃げちゃうもん」
「…………そっか」
石原は直人の顔を見つめながらいった。確かに羽をむしれば虫は逃げなくなる。だが何かが間違っていた。
直人が視線をはずし勉強机のほうに歩いた。椅子に座り、くるりとこちらに身体を向ける。足が床に届かずにぶらぶらと揺れていた。
「話って妹のことですよね」
「あ、ああ…………」
機先を制せられるとはまさに今のような状況をいうのだろう。しかも小学生の男の子に警視庁捜査一課の主任刑事が。
「そうなんだ」
石原は床に座ったまま尻をずらし、直人に向き直った。河合に顔を上げ、お前もここに座れ、と自分の隣の床を叩く。視線を下に置いたほうが直人も心理的な圧迫が少ないだろうと見越してのことだった。
「話を聞かせてもらってもいいかな」
「いいから部屋に入れたんです」
直人の言葉に石原は思わず苦笑いした。最近の子どもはこんなにこましゃくれているのか――いや娘が直人と同じ年の頃は、こんなではなかった。やはり直人は他の子どもに比べてもしっかりしているのだろう。
「妹の亜沙美ちゃんがどうなったのかは知っているかい」
「知ってます」
そう答えた直人の顔に変化はなかった。
石原は直人の表情を注意深く観察しながら話を進めるつもりだった。いくらしっかりしているとはいえ、まだ小学校二年生の子どもだ。子どもにとっては惨たらしすぎることも訊かねばならない。
「とても残念で悲しいことだけど、おじさんたちは悪い奴を捕まえたいんだ。だから協力してほしい」
「悪いやつ?」直人が首をかしげた。「誰が?」
「亜沙美ちゃんに酷いことをした奴だよ」
直人のその顔を見て、石原の胸の内側にまた悪い予感が広がっていた。
「ひどいことって?」
また直人が訊いた。
「直人君」と河合が身を乗り出した。「妹の亜沙美ちゃんは悪い奴に殺されたんだ。それもとても惨たらしい方法で。おじさんたちはその悪い奴が憎いんだ。直人君もわかるだろ」
「おい河合、やめろ」
石原は河合を制した。あまりにも酷な言いかただと思ったからだった。
だが直人はまったく表情を変えなかった。石原たちを部屋に迎え入れたときと変わらぬ顔で、じっと河合を見つめている。むしろ河合のほうが心を乱しているように見えた。
「だったら僕は悪いやつなんだ」
直人の言葉に石原は河合と一瞬、目を合わせた。
「どういう意味なの」河合が訊いた。
「だって亜沙美ちゃんを殺したのは僕だもん」
平然といった。
石原はその言葉に反応できなかった。頭が混乱し、意味が理解できなかった。
続いてわきあがってきたのは、やはりそうか、との思いだった。けれども、いざ現実になると直人の顔を見つめていることしかできなかった。
部屋に沈黙が落ちていた。空気が凍り付いたようだった。
「ちょっと待ってくれ、それは――」
どうにかこうにか、それだけ口にできた。
直人が石原たちをこの部屋に招き入れてから初めて笑顔になった。まるでびっくりしている大人たちの姿を面白がっているようだった。
「僕が殺したんだ。お腹の中に亜沙美ちゃんの好きな人形を入れて」笑いの残ったままの顔でいった。
河合が力が抜けたように、身体の後ろに両手をついた。「なんてことを…………」
石原は心を鎮め、あらためて目の前の子どもを見た。目付きが鋭くなっているのが自分でもわかっていた。
今の直人の言葉には重大な意味がふくまれていた。
亜沙美ちゃんのお腹の中に人形が押し込まれていた事実は、犯人のみが知る『秘密の暴露』だ。知っているのは捜査関係者と直人の両親だけ。直人には妹が死んだ、という事実しか告げていない。
「直人君、それは本当のことなのか」
石原は立ち上がり、直人に近づいた。一メートルほど手前で立ち止まる。
「本当だよ」石原をまっすぐ見上げたまま答えた。目には何の感情も浮かんでいないように見えた。
その目を見て、石原はわからなくなった。
人を殺した人間が、こんな目をして人を見ることができるのだろうか。
少なくとも石原が今まで見てきた殺人犯の中にはいない。しかも血が繋がっていないとはいえ、殺したといっているのは妹だ。
「主任、係長に報告をしますか」
後ろに立った河合が小声でいった。
「ちょっと待て」と自分の肩越しにいい、直人に向き直った。
「なぜ、そんなことをしたんだい」
「なぜ?」直人はまた首をかしげた。理由など考えたことがないという様子で、そういう仕草はずいぶんと子どもっぽかった。
「楽しいから」
「楽しい? 楽しいって何だい。いいか、君は人を殺したんだぞ」河合が声を荒げた。
「お前は黙ってろ。今は強面となだめ役の役割分担は必要ない」
石原は振り返っていった。河合はまだ何かいいたそうだったが、唇をかんだ。「すいません」と頭を下げる。
「直人君、申しわけないね。もうすこし詳しく教えてくれないかな」
石原は意識して顔に笑みを浮かべた。
「何を?」
「いや、その…………」直人の何気ないひと言に、石原は一瞬で総毛立った。どんな凶悪な殺人犯を前にしても、経験したことがない感覚だった。
直人は本当に妹を殺したことに何も感じていないのだと、思い知った。石原が妹の死について詳しく知りたがっているとは考えてもいないのだろう。そうでなければ、今のタイミングで「何を?」などという言葉が出てくるはずがない。
つまり直人にとって、妹の死は他人が興味を持つはずがない、取るに足らないものなのだ。
そう考えて直人の目の意味がようやく理解できた。直人にとって人を殺すことは、まさしく「楽しい」のだろう。ゲームで遊んだり、友達と遊んだり、それと同じ並びに殺人があるのだ。
とはいうものの、本当にわずか八歳の子どもが妹を殺し、しかも手首を切り落とし、腹を裂き、裂いた腹の中に人形を押し込むなど、惨たらしいことができるのだろうか――。
石原はこめかみを押さえた。頭がずきずきと痛んだ。
もし直人のいっていることが事実ならば、マスコミは大騒ぎする。八歳の子どもが妹を殺したというだけでも大きな話題になるが、その子どもが代々政治家を出している名門一族で、なおかつ父親は現役の警察官僚だ。
上層部を含めた捜査本部の混乱が手に取るように想像できた。
石原は河合に部屋の中で待つようにいい、扉に歩いた。
「またね」
背後から直人の声がした。何でこんなときに『またね』なんだ――石原は振りかえりもせず、黙って部屋を出た。
子どもには大人から見ると考えられないほど残酷なところがある。それは石原にもわかっているつもりだった。
だが直人の残酷さはもっと根深いところにある。逃げられるのが嫌だから虫の羽をむしる。殺すのが楽しいから、殺す。根元の発想は同じに思えた。
あれは普通の子どもじゃない――
脚を前に進めながら思った。
携帯を取り出し、階段の手前で立ち止まった。栗山警部にかける。
『はい栗山』割れただみ声が応じた。栗山は石原の上司で、石原班を含めた五つの班をまとめる係長だった。
『石原です。今、宜しいですか』やりとりが廊下に立っている制服警官に聞こえないように通話口を手でおおった。
『今、渋谷署の本部にいる。どうした』
『ホシのめどが立ちました』
『何だと、こっちは何も聞いてねえぞ』
栗山が大声を上げた。ただでさえ声が割れているので、大声を出されると何をしゃべっているのかわからない。石原も聞き取れるようになるまで半年かかった。
『聴取をしていた相手が自供したんです。他の者は誰も知りません』
『関係者か』
『剣崎直人。剣崎警視正の八歳の息子さんです』
『おい、それって…………』
そういったきり栗山はしばらく絶句した。忙しなく鳴る電話の音が受話口から聞こえて来る。
石原は携帯を握り直した。
この報告は捜査一課の歴戦の刑事である栗山にも大きな衝撃を与えたはずだ。刑事としての腕は誰にも負けないと、密かに自負している自分でさえ唖然としたのだから――石原は思った。
『本当なのか』唸り声とともに栗山が訊いた。
『本人がはっきりと認めています。マルガイの腹部に人形を押し込めたことも自供しています』
『なんてことだ――』
そういって栗山が通話口から離れる気配があった。怒鳴り声がかすかに聞こえてくる。関係各人に栗山が指示をしているのだろう。
『おい、石原。聞いているか』
『はい、聞こえてます』
『ひとまずそっちに行く。それまでできるだけ詳しく聞き取りをしておいてくれ』早口でまくしたてた。
『わかりました』
石原が答えるまえに、通話が切れた。
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