第6話
白木のダイニングテーブルを囲んだ椅子に、石原と河合は並んで座った。
ダイニングルームだけでも、石原のマンションの居間の倍はありそうな広さだった。天井には大きな扇風機がゆっくりと回っている。壁の一面がワインストッカーになっていて、中には見るからに高そうなワインボトルが並んでいた。
「すごい部屋ですね」
隣に座った河合が小声でいった。
キッチンから剣崎がコップとペットボトルを手に戻ってきた。石原と河合の前にそれぞれコップを置き、ペットボトルのお茶を注ぐ。
「申し訳ないですね。恥ずかしながらお茶の葉がどこにあるかもわからないので」
「いえ、恐縮です」
石原は頭を下げた。河合もならう。
剣崎が向かいに座るのを待ってから、石原は口を開いた。
「すでに何度もお話いただいているかと思いますが、改めて通報までの経緯をご説明願えますでしょうか」
「わかりました」
剣崎はよどみなく説明を始めた。被害者は剣崎亜沙美、年齢は三歳。発見者は妻の絵美、三十三歳。発見時間は今日の朝の五時過ぎ――
さすが警察官僚だけあって、石原が知りたいポイントはすべて押さえていた。それぞれの名前も紙に書き記しながら示して情報の過不足はなく、何より簡潔だった。
「それと、この点は話をしておいたほうがよい思うのですが――」
剣崎がテーブルの上で指を組んだ。「亜沙美は実の娘ではなく、戸籍上は養女になります。妻が息子ひとりではかわいそうだと妹弟を欲しがったのですが、直人を産んだ直後に子宮がんが見つかりましてね。子どもを産めない身体になってしまったものですから」
「そうでしたか」
石原はできるだけ事務的に答えた。こういった家庭の内情の話は事務的に反応したほうがよいのを経験でわかっていた。
「亜沙美が一歳になる前、建設業を営んでいた実の両親が強盗に殺されたのです。亜沙美には五歳上の姉がいたんですが、こちらは重度の心臓病で余命いくばくもない状態でした。ですから亜沙美を引き取ったわけです」
「なるほど」
石原は大きく頷いた。「その亡くなった亜沙美さんのご両親と剣崎課長はお知り合いだったのですか」
「いや何の関係もありません。私が署長をしていた署の管轄内で起きた事件の被害者でした」
剣崎は石原に対してずっと敬語を使っていた。剣崎は四十五歳の石原より七歳年下だが、階級は三階級も上だ。本来なら敬語など使う必要はないし実際部下に敬語を使うキャリアもほとんどいない。
剣崎はキャリアとしては珍しいタイプだといえる。いっぽうで養子を受け入れたきっかけを聞いて、剣崎の人柄が推し測れるような気がした。
「それと、おつらいとは思いますが捜査上どうしてもお訊きかせいただきたく――」
「結構です。遠慮なさらず訊いて下さい」
剣崎は椅子に座り直して背筋を伸ばした。
「娘さんのお腹の中に押し込まれていたビニール人形なのですが、あれに見覚えは」
「あれは…………亜沙美が我が家に来たときから持っていたものです。おそらく前の両親から買ってもらったものなのでしょう。普段からいつも持ち歩いていたのですが、あるときから持っているのを見なくなりました。もうずいぶんボロボロになっていましたし、私は勝手に亜沙美が飽きたのだろうと思っていたのですが」
「捨てたわけではないのですか」
石原の問いに、すこしの間があった。
「それは私にもわかりません――」
剣崎が言葉に詰まり、目と目のあいだを指で押さえた。「いや失礼。自分がどれだけ娘をわかっていなかったかを思い知らされます。本当に私は何もわかっていなかった…………」鼻声で答えた。
剣崎からの聴取も終わりかけたころ、「失礼します」と背後で声がした。見ると部下の甲斐がダイニングの入口に立っていた。目顔で石原を呼んでいる。
「ちょっと、失礼します」河合に待っているようにいい、石原はダイニングを出た。
「どうした」
甲斐に近づきながら訊いた。甲斐の顔が紅潮しているのは寒さからだけではないように思われた。
「さっき鑑識から報告がありました。森の中でビニール袋が見つかったそうです。中には血の付いた衣服が入っていました」
「どういうことだ」
「それが…………」
甲斐がちょっとためらうような顔になった。ちらりとダイニングのほうに目をやる。「どうやら衣服は男の子向けでして、サイズは一二〇センチくらい、だいたい小学校一年生のサイズだそうです。付着していた血痕は今、鑑定中です」
石原は顎に手をあてた。すぐに頭に浮かんだのは息子の直人のことだった。直人は小学校二年生だが、年齢のわりには小柄で、体格は小学校一年生とたいして変わらない。
直人が事件に関わっているのかどうかは、まだ判断できない。だが、なぜ血痕のついた衣服が敷地内に捨てられていたのか。証拠を隠滅するためと考えるには、あまりにもずさんな気がする。だが、そもそも犯罪は大半が衝動的で行き当たりばったりなものだ。
石原は顎に当てた手をさすった。
この状況で証拠を隠滅しようと考える人間は――。
「母親には服を見せたのか」
「見せましたが、主任もご存知の状態でして…………。何をいってもまったく反応がありません」
「よし、剣崎課長に確かめる」
「私もそのつもりでいました」
石原はダイニングに戻り、甲斐からの報告を剣崎に伝えた。剣崎は充血した目をこれ以上ないくらいに見開き、椅子から立ち上がった。
「ご確認いただけますか」
「当然だ」
甲斐に先導されて、石原と剣崎はダイニングを出た。最後に河合も続いた。
居間に戻った。妻の絵美は焦点の合わない目を中空に上げたままソファに座っている。
テーブルの上に、ビニール袋に包まれた白い運動靴が片方だけ置かれていた。側面に紺色の縦じまが三本並んでいて紐で縛るタイプのものだった。靴底に茶色い泥がこびりつき、先のところに飛沫のような黒く小さな点がいくつも付着している。名前はどこにも書かれていないという。
石原がビニール袋を手に取り、剣崎に手渡した。
「どうですか剣崎課長、見覚えがおありになりませんか」
訊いたが、答は明らかだった。ビニール袋を持つ剣崎の手がはっきりわかるほどぶるぶると震えていた。視線はそのまま固まってしまったように靴に据えられていた。
「息子さん…………直人君のものですか」
「間違いありません…………私が直人の誕生日に買ってあげたものです。海外のブランド品で、直人のサイズが日本では取り扱いがなかったので、わざわざイタリアから取り寄せたものです」
「嘘よっ」
突然、母親の絵美が叫んだ。眉の間に深い縦じわを刻み、目を大きく見開かせている。「あなた、何をいっているの。こんな靴、直人が履いているのを見た事なんてないわ」両方の手を激しく動かしながらわめき続ける。
「絵美、お前はスニーカーに詳しくないからわからないだろうが、これはそうそう他にはないものなんだ」
剣崎がいっても絵美は髪をふり乱し、唾が飛ぶのもかまわずわけのわからない言葉を叫び続けている。美しい顔が歪み、まるで般若のようだった。
剣崎は苦しそうな表情を浮かべてその姿を眺めていた。石原にも、今はそうするより他にないように思われた。
やがて剣崎が一歩、前に進んだ。
「絵美、わかった。もういい」
妻の肩に手を置き、それから隣に座って抱きしめた。
絵美は剣崎の腕の中でわめきながら暴れていた。だが次第に落ち着きを取り戻し、剣崎の肩に顔をうずめた。抑えていたものをすべて吐き出すように、大きな声を上げて泣いた。
妻を抱きしめたまま、剣崎が顔だけを振り返らせた。石原に目を上げる。
「直人に事情を訊いてくださって結構です」
「よろしいのですか」
「構いません。あれは親の私がいうのも何ですが、しっかりしています。あなた達の質問にきちんと答えられると思います」
「息子さんを信頼しておいでなんですな」
「もちろん」剣崎が笑った。だが、その笑みはどこか悲しそうに見えた。
「では、そのようにさせていただきます。失礼します」
いち礼して居間を出た。
「直人君はどこにいる」廊下を進みながら隣を歩く河合に訊いた。自分でも早足になっているのがわかった。
「自分の部屋にいます。二階です」
ゆるやかな曲線を描く階段をのぼり二階に上がった。廊下を歩く。
「まさか剣崎課長の息子さんが関係しているんでしょうか」河合が訊いた。
「まだわからん。相手は子どもだ、いつも以上に予断を持たずにあたるんだ」
「わかりました」
そういったものの石原には予感があった。そしてその予感はとてつもなく嫌なものだった。
どうか予感が外れてくれ――石原は脚を前に進めながら願っていた。
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