第5話

 石原は車を降りてコートの襟をたてた。寒さが肌を刺すようだった。吐く息が目の前で大きな白い塊になった。

「しかしすごい家ですね」

 同じ車に乗っていた部下の河合巡査部長刑事が、今通ってきた道に目を向けた。石原も同じ方向を見る。曲がりくねった道の両側に深い森のような樹々が迫り、その先の門扉は見えない。

 たぶん敷地は石原のマンションの近くにある公園くらいの広さがあるだろう。もっともここは日本でも指折りの高級住宅街、渋谷区松濤で、石原の自宅は東京の下町だ。同じ広さでも資産価値がまるで違う。

「剣崎警視正って何者なんですか。いくらキャリアっていったってこんな大きな家…………」河合が背後の屋敷を振り仰いだ。

 石原も同じように見上げた。煙突が突き出た三角屋根に黒い梁、漆喰の白い壁。二階に並んだ窓には鎧戸がついている。石原は建築に詳しくないが、何となく海外の別荘のような趣の屋敷だった。

「剣崎家は代々、警察官僚から政治家に転出してる家柄だ。親父さんは亡くなってるが、民正党の公安族のボスだった。いずれ剣崎警視正も政治家に転出するっていうのは既定路線だろう」

「へえ、主任詳しいですね」

「捜査一課の刑事やってんなら常識だ。お前もすこしは上の情報を集めろ。出世の条件だぞ」

 石原は屋敷に向かわず、死体が発見された倉庫に歩いた。

「目指すは捜査一課長ですか」後ろをついてくる河合がいった。

「ま、刑事やってんなら誰だって目標とするもんだろ」

 屋敷と森のあいだの通りをしばらく進んだ。前方に灰色のプレハブ家屋が見えてきた。立ち入り禁止の黄色いテープが張り巡らされ、所轄や機動捜査隊の刑事たち、制服姿の鑑識課員たちが忙しなく動きまわっている。

 コートのポケットから、毛髪が落ちるのを防ぐためのビニール袋を取り出し頭にかぶった。革靴もビニール袋で覆う。

 石原はテープをまたいで内側に入った。

 プレハブ小屋の前に見慣れた顔があった。部下の甲斐巡査部長刑事だった。

「主任、お疲れさまです」

 石原はちいさく片手を挙げ「お前、ホトケさんを見たのか」

「見ました」甲斐は顔を歪めた。「かなり惨たらしいです」

 遺体はすでに病院に運ばれて、司法解剖に回されているという。右の手首が切り落とされ、切り裂かれた腹部にビニール製の人形が押し込まれていたらしい。被害者の年齢が三歳と聞いて石原は胸が痛んだ。子どもが被害者の事件は本当につらい。

 プレハブ小屋の入口には青いビニールが降りていた。石原はその前に立ち、「ワニさん、石原だけど入っていいかい」と訊いた。

「おう、入れ」

 中から鑑識課主任の鰐淵の野太い声が聞こえた。石原はプレハブ小屋の中に入った。強い照明に石原は目を細めた。

「どうだい、何か出そうかい」

「いっぱい出てるよ」

 鰐淵が作業を続けながら答えた。「現場に落ちてた血のついたナイフとのこぎりから指紋が出てる。ナイフは腹を裂くのに、のこぎりは手首を落とすのに使ったんだろう」

「そうかい」

 石原は顔をしかめた。いっぽうで、これは早く片付きそうなヤマだとも思っていた。

「ホトケさんの死亡推定時刻は?」

「死後五、六時間ってところだろう。ホトケさんの腹ん中に人形が押し込められてたってのは聞いているか」

「ああ」

 石原は腕時計を見た。朝の八時を過ぎたところだった。ということは夜中の二時から三時あたりの犯行というわけか。

「ひでえもんだぜ。ホシは間違いなく変質者だな」

 鰐淵がマスクの上の眉を寄せた。

「ちょっと中、見せてくれ」

「余計なところ踏むんじゃねえぞ」

「わかってるよ」

 石原は顔を巡らせ、小屋のすみのほうで目を留めた。床に敷かれた藁の上に赤黒く変色した血が広がっている。

「あそこか」

「ああ、うつ伏せに寝かせられていたらしい。母親が抱き上げて初めて、手首が切り落とされていて腹が切り裂かれているのがわかったそうだ」

 鰐淵が石原の視線の先に顔を向けた。「もっとも発見者の母親は、ショックで何も話せないらしいけどな。全部、父親の剣崎課長から聞いた話だ」

 幼い娘の惨たらしい遺体を腕に抱いて、母親はどんな気持ちだったのだろう。娘を持つ石原は、捜査に私情は禁物だとわかっていながら同情を禁じえない。

 それから倉庫の中やまわりを見て回った。特に気になるものは見つけられなかった。後は鑑識の結果に期待するしかないだろう。

 河合をともなって屋敷に戻った。

 見ると車寄せのある大きな玄関の脇に、男の子がしゃがんでいるのが見えた。石原は男の子に近づいていった。

 男の子は下を向いて両手を動かしている。指先に握った何かをいじっているようだった。

 石原は男の子の横に立った。気が付いた男の子が顔を上げる。髪の毛を眉の上でまっすぐに切りそろえ、目がくりっとしている。いかにも良家のお坊ちゃんという顔立ちだった。小学校一年生くらいか。

「ボクはこの家の子かい」

 石原が訊くと、男の子が立ち上がった。

「そうです。剣崎ナオトといいます」

「うん」とか「そうだよ」という返事を予想していた石原は、思いのほかしっかりした答にすこし驚いた。

「ナオト君はいくつだい」

「八歳です。小学校二年生です」

「へえ、そうなんだ。ナオト君はしっかりしてるね」

 石原はあらためてナオトを見つめた。小柄で華奢な体格をしているので年齢よりも幼く見える。けれども受け答えは年齢以上にしっかりしたものに思われた。よほど厳しくしつけられているのだろうと見て取った。

 ナオトはにっこり笑うと、またその場にしゃがんだ。石原に声をかけられて途中でやめた遊びをまた始めるのだろう。

 石原はナオトの指先を見た。茶色くて繭玉のような形をしたものをつまんでいる。

「何だい、それは」いいながらナオトのわきにかがんだ。

 ナオトの足元には、子指くらいの大きさの茶色いものが散らばっていた。よく見るとそれらはミノムシの殻だった。都会ではあまり見なくなったが、これほど樹木が茂っていればそこらじゅうで捕まえられるのだろう。

 ナオトは足元のミノムシを拾い上げ、やはり足元に置いていたカッターナイフで殻を切り裂いた。うねうねと動く白いミノムシの昆虫を中から取り出し、靴で踏みつぶす。ナオトの足元には茶色い染みのようなものがいくつもあった。これらはすべて昆虫を踏み潰した跡なのだろう。

 この子は何をしているのだ――本来ならばこんなところで時間を潰している余裕はない。けれども石原は、奇妙なナオトの行動に興味を引かれた。

 ナオトはそうやって集めたミノムシの抜け殻を、茶色い繭玉のようなものの上に幾重にも被せていく。ナオトが持っていた茶色いものはミノムシの殻を重ねて作ったものだと、石原はようやく理解できた。

「ナオト君、それはどういう遊びなんだ」

 石原が訊くと、ナオトはそこに石原がいることを初めて気が付いたように顔を上げた。よほど集中していたのだろう。

 だがナオトはすぐに顔に笑みを浮かべ、手にしたものを石原の顔の前に突きだした。そして両方の指を使って重ねた殻の裂け目を押し広げていった。

 裂け目の中から現れたのはミノムシではなく、小さなキューピー人形だった。

「ほら、お腹の中から赤ちゃんが出てきた」そういって笑った。

 石原は目をみはった。マルガイのお腹の中から出てきたビニール人形とイメージが重なったからだ。隣に目をやると、やはり河合もひきつった横顔でじっとナオトを見ていた。

 石原はひとつ空咳をした。

「ナオト君、お父さんとお母さんは家にいるかな」

「はい、たぶん居間にいると思います」

「そうか、どうもありがとう」

 石原は立ち上がり、玄関に向かった。河合が横に並ぶ。

「またね」

 背後から声が聞こえた。石原が振り返るとナオトがにこにこしながら手を振っていた。

「ああ、またね…………」手を振りかえして顔を元に戻した。

「主任、今のナオト君の遊び…………」

「わかってる。それ以上いうな」

 屋敷の中に入った。

 広い三和土、吹き抜けの天井。正面にはゆるやかに曲線を描いた階段が見える。外から見たとおりの豪勢な造りだった。

 靴を脱いで上がったすぐ右側に扉があり、制服の警官が立っていた。

「ご苦労さまです」

「ホトケさんの両親は中か」石原は居間を指さした。

 警官が扉を押し開き、身体を退かせた。石原たちは居間に脚をふみいれた。

 三十畳はゆうにある広い居間のソファに、髪の長い女と細身の男が座っていた。女は化粧っ気がなかったが、その美しさがじゅうぶんにわかるほど整った顔立ちをしていた。男は警視庁内でもたまに見かける顔だった。剣崎忠直警視正。警視庁広報課の課長だった。

 剣崎夫婦の向かいに座っていた刑事が立ち上がり、小さく頭を下げた。やはり石原の班の木下巡査長刑事だった。

「剣崎課長、このたびは何と申し上げれば…………」頭を下げながら剣崎夫妻の座るソファに歩いた。木下と入れ替わりに河合と並んで座る。

「君は…………」

 剣崎がぼんやりとした目を向けてきた。両目が充血し、目の下にできた隈が疲労を物語っている。隣に腰を下ろしている妻は、ずっと空中の一点を見つめたまま動かない。石原たちが入って来たのも気がついていない様子だった。

「捜査一課の石原警部補です。こちらは部下の河合巡査部長です。今回の事件の捜査にあたらせていただきます」

「そうですか…………よろしく頼みます」剣崎が頭を下げた。石原たちも頭を下げる。

「早速で恐縮なんですが、発見のときの状況をお訊かせいただきたいのですが」

「ああ、そうですね」

 剣崎が隣の妻に目をやった。「妻はこういう状態だから、私のほうから話をさせてもらってもいいかな」

「結構です」

 剣崎がソファから立ち上がった。「じゃあ奥のダイニングで」

 石原たちも腰を上げた。

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