第4話

 アラームも鳴っていないのに目が覚めた。ナイトテーブルの上に置いた時計は、朝の四時半すぎを示していた。まだ忠直が起きるまで一時間以上ある。


 絵美はもういちど眠ろうと目を閉じた。寝返りを打って身体の向きを変える。忠直が見えたことに、驚いた。いつもは絵美と忠直のあいだに亜沙美が眠っている。だが、その亜沙美がいないのだ。

 布団をめくりあげても、やはりいない。

「アッちゃん亜沙美ちゃん?」

 小さく呼びかけて部屋を見回した。真っ暗だった。忠直がすこしでも明るいと眠れないので、いつも寝室は電気をすべて消している。外はまだ暗く、カーテンの隙間からも光は漏れていない。

「亜沙美ちゃん?」

 もういちど呼びかけても返事はなかった。ぐっすりと眠っている忠直のいびきの音が聞こえてくるだけだ。

 トイレに行ったのだろうかと思った。でも、亜沙美は暗い中を一人でトイレには行けない。いつも必ず絵美の肩を揺らして起こし、一緒に行くのだった。

 ベッドから降りて、真っ暗な中をそろそろと前に進んだ。扉を開くと廊下から漏れた光が寝室の中を照らした。亜沙美の姿はなかった。

 廊下に出て直人の部屋の前に進んだ。ノブを握ると鍵が開いていた。音を立てないように扉を開く。うす暗い照明に照らされたベッドに直人はいなかった。布団がめくれ、シートにしわがよっている。部屋に入ってベッドに手を当てた。

 冷たかった――。

「直人、亜沙美ちゃん」

 呼びながらトイレの中や忠直の書斎も見た。けれども返事もなければ姿もなかった。

「ねえ、どこにいるの」

 絵美は声に出しながら一階を歩いた。居間にもダイニングにも、ウォークインクローゼットにも二人はいなかった。

 階段の下に戻り、ふと玄関に目がいった。直人と亜沙美の靴がない。

 靴はきちんとそろえて脱ぎなさいと二人には口うるさくいっていたつもりだった。だから今日の昼に目にしたときは、いつものように小さな靴が仲良く並んでいたのを憶えている。

 絵美はサンダルをつっかけて玄関のノブを手に取った。するとあっさりと開いた。鍵がかかっていなかった。

 そんなはずはない。ゆうべ寝る前に戸締りは確かめた――。


 絵美は駆け出した。玄関から続く道の両側は樹木がせまり、暗い森のようになっている。暗い空と暗い森が溶け合って、あたりいちめんが暗い闇の中だった。剣崎家は旧家で、都心の一等地にあるにもかかわらず敷地は大きく、ちょっとした公園くらいある。

 絵美はためらうことなくその闇を走った。濡れた下草がサンダル履きの素足に当たる。空気が肌を切るように冷たかった。葉の茂った枝の間から、ほんのすこしだけ白みはじめた青黒い空が見えた。


 敷地の中には、大きな倉庫がある。中には忠直の趣味の日曜大工の工具や工材が置いてある。直人が何度も中を見たいといっていた――。

 絵美は倉庫に走った。夜露に濡れた葉が、顔や髪に当たる。全身が水浸しになってもかまわず前に進んだ。やがてプレハブの四角い倉庫が、明け方のうすい光の中、ぼんやりと灰色の壁が浮きあがっているのが見えた。窓ガラスは、霜がはりついて白く曇っていた。

 絵美は白い息を吐きながら、引き戸に手をかける。扉の動きにつれて、暗い倉庫の中に差しこんだ光の幅が広がっていく。薄い光の筋のなかにきらきらと埃が舞っているのが見えた。

 倉庫の中は静まり返っていた。

 工具箱やはしご、リアカーなどが薄明かりの中にうずくまるように置かれていた。建材が壁にたて掛けられて並んでいる。

「直人、亜沙美ちゃん、いるの?」

 入口のところに立って呼んでみた。ツン、と饐えた匂いがした。倉庫の左の奥、窓からも入口からも光が届かない暗い場所の中に、ぼんやりと白い小さな塊が見えた。

「ねえ、返事して。ママよ」

 呼びかけながら歩いた。そうしていないと恐ろしかった。心臓が大きく脈打ち、胸がざわざわと騒いでいた。

 塊にあと一メートルほど近づいたところで、それが亜沙美だとわかった。床の上に藁が敷かれていて、うつ伏せに倒れている。長い髪の毛が肩にかかっているのが見えた。

「亜沙美ちゃん、よかった。無事だったのね」

 叫んで駆けよった。亜沙美の横にしゃがんで身体の下に腕を入れた。そのまま抱きあげる。同時に目の端に何かがこぼれ落ちたのが見えた。

 それを見た瞬間、絵美は悲鳴を上げていた。

 藁の上に転がっていたのは手だった。それも手首から先の部分だけで、五本の指が軽く内側に曲げられている。切断面の肉が赤黒く光り、血管が触手のように肉からはみ出ていた。

 腕から力が抜け、抱き上げた亜沙美が床にごろりと転がった。そのはずみで仰向けになった亜沙美を見て、絵美はまた悲鳴を上げた。

 亜沙美の白いパジャマが赤黒く染まっていた。お腹のところがざっくりと切り裂かれて、赤黒い肉が見えている。切り裂かれた肉のあいだから白っぽいものがのぞいていた。それが何なのかは暗くてよくわからなかったし、恐ろしくてとても確かめることはできなかった。

 絵美は自分の両腕を見た。真っ赤だった。


 空気が漏れたような悲鳴を上げた。身体が震えてその場に尻もちをついた。

 背後に気配を感じた。

 絵美はおそるおそる上体をねじって振り返った。

 入口のところに直人が立っていた。無表情でじっと絵美を見つめている。

 直人、と言おうとして息が止まりそうになった。白いパジャマの直人の全身が、真っ赤に染まっていた。

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