第3話
ジングルベール・ジングルベール鈴がーなるー。
クリスマスケーキを囲んで直人が歌っていた。歌詞をまだ憶えていない亜沙美は直人の歌に合わせて、とぎれとぎれに歌いながら手を叩いている。さきほどの争いなど、なかったかのような平穏な姿だった。二人とも三角帽の下の丸い頬がつやつやと光っていた。
直人の隣に座った夫の忠直もにこにこしながら子どもたちが歌う姿をながめていた。警察官僚の忠直が年の暮れに自宅にいるのは、めったにないことだった。結婚してからはたぶん初めてだ。
絵美も歌に合わせて手を叩いた。昼間の傷のせいで手を合わせるとまだ掌が痛かった。傷は思ったよりも深くて長かった。あまりおおげさにはしたくなかったけれど、絆創膏だけでは隠し切れなかったので右手に包帯を巻いた。忠直には包丁で切ったといっておいた。
絵美は忠直に直人のことを話していなかった。と、いうより話す時間がなかった。日曜休日関係なく、毎日深夜まで働いている夫は、家には眠るために帰ってくるようなものだった。幼稚園で首を絞めたことを話した時も「そう」というだけだったし、夫の助力には期待できなかった。
絵美はあらためて三人をながめた。息子と娘、夫がクリスマスケーキを囲んで楽しそうに歌っている姿は、幸福な家庭そのものだ。とてもついさっき、恐ろしいことがあったとは思えなかった。
――ジングルベール、ジングルベール、鈴がーなるー。
絵美も歌を口ずさんだ。
私がこの家族を守らなければ――絵美は決意を強くした。
直人と亜沙美は、大好きなピザや若鳥の唐揚げを食べて、ジュースもたくさん飲んだ。普段は虫歯になるからとあまり飲ませていないのだけれど、今日は特別だった。
昼間のことなどなかったように笑っている子どもたちを見て、あれは自分の幻想だったのではないかと思うほどだ。
忠直が二人にクリスマスプレゼントを渡した。もちろん忠直が買ったのではなくて、絵美が買っておいて忠直から二人に渡すようにしていた。
直人には前から欲しがっていたゲームソフトを、亜沙美にはぬいぐるみを贈った。立たせると大人の背丈くらいの大きさの、黄色いくまのぬいぐるみだった。近くのチェーン店のおもちゃ屋にいったとき、亜沙美が気に入っていたのを絵美は憶えていたのだった。
プレゼントは子どもたちに見つからないように、毎年車のトランクの中に隠していた。けれども亜沙美のぬいぐるみは大きすぎてトランクに入りきらず、寝室のクローゼットに隠しておいた。いまも忠直が両手で抱えて居間に運んできた。
直人が先に包装を開いて「やったー」と声を上げた。その姿は本当に無邪気な子どもだった。亜沙美は包装がうまく解けずに、忠直が手伝った。
「あれ?」
忠直が箱の中に手を伸ばしたまま、声を上げた。眉をひそめる。
「何だこれ」
「どうしたの、パパ」
「いや、おかしいな…………。ママ、ちょっと来てもらっていいか」
絵美は立ち上がり、箱を覗く。その瞬間、絵美は「あっ」と声を上げていた。
黄色いくまのぬいぐるみがずたずたに切り裂かれていた。
目の片方がちぎれかかり、かろうじて糸でつながっている。だらりと垂れた目玉が頬のあたりまで垂れさがっていた。特にお腹のところはひどく傷つけられていて、内臓のようにはみ出ていた。
絵美は直感した。思わず直人をみると、じっと絵美を見ている。あの冷たい目だった。
「一体何があったんだ…………」
隣で忠直がしぼり出すような声を上げた。絵美に顔を向ける。眉のあいだに深い縦じわが刻まれていて、目の奥が光っていた。初めて見る顔だった。これが警官の目なんだろうかと一瞬、関係ないことを思った。
「どうしたの、ママ…………」
亜沙美が小さな声でいった。不安そうな目で絵美を見上げている。
「亜沙美ちゃん、ちょっとね――」
うまい言い訳がとっさに浮かばず、言葉を詰まらせた。
すかさず忠直が亜沙美の横にしゃがんだ。頭に手を置く。
「パパがおっちょこちょいでサンタさんにお願いする亜沙美のプレゼントを間違えちゃってね、。本当は亜沙美が欲しがってた大きなくまさんのぬいぐるみにしたつもりだったんだけど、間違って大きなお化けのぬいぐるみになっちゃったんだ」
「えー」
亜沙美が声を上げた。泣きそうな顔になる。
「ごめんな、亜沙美。だからサンタさんにお願いして、大きなくまさんに交換してもらわなきゃ。ちょっとだけプレゼントは待ってくれるかな?」
「サンタさん、こうかんしてくれるかな…………」
亜沙美は大きな目にいっぱい涙をためていた。
「サンタさんなんか、いないよ」直人が椅子にすわったままいった。
直人、と絵美が呼ぶより先に、
「黙っていなさい」
忠直が強い調子でいい、直人に顔を向けた。
直人はじっと忠直を見つめ返した。あの感情のない目で。
忠直の前では初めて見せる顔だった。忠直が普段は家にいないというのももちろんあるのだけれど、直人は忠直の前だけは意識して子どもらしくふるまっているところがあった。
忠直が直人を見やった後、亜沙美に顔を戻した。もう目に鋭さはなかった。
「さあ、ケーキを食べようか」
「そう、そうね。そうしましょう! 直人、亜沙美、お皿運んでね」
絵美と忠直は目くばせをしあって、わざと明るい声で言った。
納得しきれていない様子の亜沙美が椅子に座る。直人は、えー、と言いながら、素直に皿を運び始めた。けれども絵美の手は、まだ震えていた。
ケーキを食べ終えてしばらくすると、亜沙美が幼児用の椅子に座ったまま、こっくりこっくりと船を漕ぎはじめた。
忠直が亜沙美を抱いて二階の夫婦の寝室に上がっていった。絵美は直人にもそろそろ眠りなさいといい、忠直の後に続いた。
「あれは直人がやったのか」
ベッドに腰を下ろした忠直が訊いた。ベットの上では、亜沙美がすやすやと寝息を立てている。
「…………たぶん、そうだと思う」
迷った末に絵美は答え、忠直の隣に座った。もう隠しきれないと思った。
「何であんなことを…………」開いた膝の上に肘を載せた姿勢のまま、忠直が絵美に顔を向ける。「直人は普段から、ああなのか」
「普段はとってもいい子よ。普通の子どもとぜんぜん変わらないわ」
絵美の言葉に忠直が眉をひそめた。
「ならばときどき、普通の子どもとは違うということか」
絵美は言葉につまった。やはり忠直は警官だ。言葉の裏側をすばやく読み取ってしまう。
絵美は腹を決めた。
「あなた、今日こそはちゃんと聞いて欲しいんだけど…………」
大きく息を吸いこんだ。ベッドに座り直し、忠直を正面から見た。忠直も姿勢を戻して絵美を見つめた。
絵美は幼稚園で直人が友達の首を絞めたことから今日の昼のことまで、憶えているかぎりのすべてを忠直に話した。今まで忠直に言っても「そう」で済まされてきてしまったものをすべて。忠直は話がすすむにつれて表情が真剣になり、最後はつらそうに顔を歪めた。
「なんてことだ…………」
すべてを聞いた忠直が、頭をかかえるようにして髪をかきむしった。
「本当に直人はパパもママも殺すといったのか」顔を俯かせたまま、うめくようにいった。
絵美は黙って頷いた。忠直は絵美に顔を向けなかったが、無言が答だとわかったようだった。
「口先だけならまだしも、本当にお前を傷つけて平気でいられるなんて…………」
忠直が顔を上げ、絵美を見上げた。その目には恐れと怒りが混ざりあった感情が滲んでいた。普段から冷静で、めったに感情をあらわにしない忠直がこんな顔をするのを、絵美は初めて見た。
寝室の扉の向こうからトイレの水が流れる音が聞こえた。直人がトイレを使ったのだろう。
忠直がすばやく立ち上がり、寝室を出ていった。「あなた」という絵美の声は、乱暴に閉められた扉の音にかき消された。「ねえ、ダメよ」
「直人っ」と忠直の声が扉の向こうから聞こえた。その直後、ドアが閉まる音がして、また静かになった。絵美はベッドから立ち上がり廊下に出た。
忠直が直人の部屋の前に立っていた。直人と何度もよびかけながらドアを激しくノックしはじめた。内側から鍵がかかっていてノブは動かなかった。
「あなた、もうやめて」
絵美は忠直の肩に手を置いた。これ以上は直人を刺激するだけだと思った。
忠直がふーっと息を吐いて、いからせていた肩を落とした。振り返った顔からは昂ぶった感情が消えているように見えた。
「…………ちょっとトイレに行ってくる」
気が抜けたような笑みを見せて、忠直が扉の前をはなれた。
しかし、忠直がトイレの扉を開くと同時に、「あっ」と声をあげた。絵美は廊下を走った。
トイレの中で忠直が便器の中を見下ろしていた。
絵美も便器を見た。蓋が開き便座も上がっている。そしてたまった水の中に銀色に輝く
忠直の腕時計が沈んでいた。父親から東大を卒業したときに送られたスイス製の高級時計で、忠直が大切にしていることは絵美はもちろん直人も知っていた。
「どういう事なんだ、これは…………」
忠直の問いに、絵美は顔を横に振った。
けれども絵美にはわかっていた。これは直人の仕返しなのだ。直人は自分をけなしたり、叱った相手を決して忘れない。その場ですぐにやり返さないが、いつも仕返しをするタイミングをうかがっている。だから忠直がいちばん大切にしている腕時計を台無しにしたのだろう。
絵美は震えた。何か恐ろしいことが起きるような予感がしていた。
何としても家族を守らなければ――その言葉を何度も心の中で繰り返していた。
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