第2話
五年後。二〇〇四年 十二月。
「じゃあ、亜沙美ちゃんはこれをつけてね」
絵美は金色のボール型のオーナメントから伸びた糸を、クリスマスツリーの枝にくくりつけた。
「ほら、こうやるのよ」
箱から同じボールを取り出して、紅葉のように小さな亜沙美の手をとった。一緒に、オーナメントをつけてやる。
「ほら、できた。きれいねえ」
わあ、と亜沙美のくりくりとした目が輝いた。すっかりクリスマス気分の亜沙美は赤い三角の帽子をかぶったままツリーの飾りつけをしていた。帽子がぶかぶかで、頭を動かすたびに後ろにずり落ちそうになるのを手で直している。
「ねえ、ママ、これでいいの?」
直人の言葉に振り向くと、クリスマスツリーに電飾コードが巻き付けられていた。さきほど絵美が直人に頼んだ仕事だ。直人はきっと褒めてもらえるという期待にワクワクして絵美を見つめている。
「とっても素敵ね! さすが直人!」
絵美はそう言って、直人をぎゅっと抱きしめた。きゃあ、と興奮したように直人が声をあげる。その瞬間、シャツの袖があがって左手首の黒い痣がむき出しになる。星の形をした特徴的な痣で、絵美はそれを見るたびに、きれいな身体に産んであげられなかった申し訳なさに胸が痛んだ。
直人と亜沙美が飾りつけをしている様子をしばらく眺めてから、絵美はお手洗いに行った。だが、用をすませている間に、居間から火がついたような泣き声があがった。亜沙美の声だった。絵美は慌てて居間に戻った。
見るとツリーの横で亜沙美が仰向けに倒れ、大きな声で泣いていた。
亜沙美の前に立ちはだかるように、直人が亜沙美を見下ろしていた。直人は無表情で、手にはツリーのいちばん上に飾る星の形のオーナメントが握りしめられていた。
「亜沙美ちゃん!」
絵美は亜沙美に駆けより抱き上げた。大きな目から涙が溢れている。
絵美は亜沙美を抱きかかえたまま直人に顔を向けた。相変わらず直人は無表情だった。
「直人、何があったの」
できるだけ優しく訊いた。直人と話をするときは、いつもそうしていた。
「何が?」
直人がじっと絵美を見詰めたまま、口だけを動かすようにいった。
「何がって、亜沙美ちゃんが泣いてるじゃない。どうしたの」
「だって邪魔だから、あっち行けって」
「だからって、こんなにひどくしなくたっていいじゃない」
「亜沙美が勝手に倒れたんだ。僕は押しただけだもん」
直人の言葉に、絵美はどう言えばよいか分からなくなった。
たぶん直人が持っているオーナメントを取り合っての喧嘩なのだろう。冷静に考えればよくある兄妹喧嘩だ。だが、直人の目にぞっとした。目の前で妹が倒れて泣いているのに、まったくの無表情の目。
友達の首を絞めたときの直人の目と同じだった。
その目を見るたび、わけのわからない胸騒ぎがして、とてつもなく不安になる。身体を内側から支えている芯棒をぐらぐらと揺すられているように、心のバランスが崩れそうになる。
「勝手に倒れただけでこんなふうにならないでしょう。亜沙美ちゃんが可哀想だと思わないの」
「思わないよ。だって亜沙美ちゃんだって楽しそうじゃないか」
「どうして? どうして亜沙美ちゃんが楽しそうなの。こんなに泣いてるのに」
「だって僕は楽しい。だったら亜沙美ちゃんだって楽しいに決まってる」
「…………泣くのが?」
うん、と直人は答えた。まるで当たり前のことを聞かれたように。
「ママは楽しくないの。泣いたり、叩いたりするの」
「何? なんて言ったの」
直人はじっと絵美を見詰めた。質問には答えなかった。
「直人っ、何なの、どういうことなの」
「だっていつか、もっとひどいことをするんだよ。どうしてこれくらいでママは怒るの」
「何を言ってるの。何をするっていうの」
「殺すんだ。亜沙美ちゃんだけじゃなくって、ママもパパもみんな。いつか」
「えっ…………」
ぞっと背中が冷えた。自然に口元に手をやっていた。触れた唇が小刻みに震えている。
「直人…………あなた、何をいっているの」
直人は表情を変えずに、くるりと背中を向けた。そのまま居間を出て行ってしまう。絵美は直人の華奢な背中を、ぼんやりと見つめていていることしかできなかった。
絵美は床に尻をつけてその場に座りこんだ。全身から力が抜けてしまった。
(何なの、今のは…………)
直人が他の子どもと違うのはわかっていた。いつもそばにいてあげなければだめだ、そうしないといつか大変なことをしでかすかもしれない――。
だから働いていた会社を辞めた。
――――でも正直なところ、絵美は直人が恐ろしかった。
どれだけ会話をして、いっしょの時間を過ごして、直人を理解しようと頑張っても、その気持ちが直人に届いている実感がなかった。
叱っても褒めても直人は変わらないのだ。いつも無表情で、絵美をただじっと見ているだけだった。そして今の恐ろしい言葉――絵美は、もう直人をどうすることもできないのかもしれない、と思った。
ママ、とか細い声が耳元に聞こえた。顔を向けると亜沙美の心配そうな顔が目の前にあった。絵美は思わず亜沙美を抱きしめていた。柔らかくて温かくて、頼りない身体だった。
何としても守らなければ。亜沙美を、そして直人を――。
亜沙美の髪に頬を寄せながら絵美は思った。
と、その時、気配に気づいて、亜沙美の髪から顔を上げた。いつの間にか直人が居間の入口に立っていた。じっとこちらを見ている。
「直人、おいで」
そう言おうと思った瞬間だった。
直人が、なにか細長いものを、やり投げのようにかかげた。尖った先端がこちらに向き、その手首に星形の痣が見えた。そのまま亜沙美に向かって飛び込んでくる。
「直人っ」
絵美は思わず亜沙美を背中にかばい、直人に手を伸ばした。掌に鋭い痛みが走った。力いっぱい直人の腕をつかみ、手にしていたものを強引に奪い取った。
直人はそれでも前に進んできた。絵美を押しのけ、亜沙美の顔を叩こうとする。
絵美は思わず、息子の肩を思いきり押していた。
「何をしているのっ」
肩で息をしながら絵美は叫んだ。膝に手をつけて身体を支える。そうしていないと倒れてしまいそうだった。
直人は不思議そうな顔をしてゆっくりと立ち上がり、自分の右の掌と絵美の間に何度も視線を往復させていた。どうして自分が持っていたものが無いのだろうという顔だった。恐ろしいことをしたという自覚はまるでないようだった。
直人が手にしていたのは編み針だった。絵美が直人と亜沙美へのプレゼントにと編んでいたマフラーを作るときに使っていたものだった。
ハサミや包丁など、危険なものはできるだけ直人の手の届かないところに置いていた。でも時間が空いたときにいつでも取り掛かれるように、編み針と毛糸だけは夫婦の寝室のナイトテーブルに無造作に置いていた。
絵美は編み針を握りしめた自分の右手を見た。指の間から血が流れていた。これで亜沙美の顔を貫けば、顔に穴があき、失明していただろう。
「直人、あなた、何をしたかわかってるの…………」
「わかってるよ」
直人はモジモジして、居間を出ていこうとした。絵美は直人の後を追った。何か危ないものを手にして戻って来るのではないかと思ったからだった。
ところが直人は廊下の途中で立ち止まり、顔だけを振り返らせた。
「ママ、大丈夫だよ。もうしないから」
「…………どういう意味?」
「だってつまんなかったから」
直人は自分の部屋のドアを開け、中に入っていく。
一体何がつまらなかったのか、人を傷つけるのに楽しいとかつまらないという感情が先に来るものなのか、絵美にはもう分からなかった。扉の向こうで、かちゃりと鍵がしまる音がした
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