第2話

「覚悟があれば、それも受け入れられましょう」

 覚悟などなかった。そして、なぜ覚悟がなかったのか、やっとわかった。

 知りたくなかったのだ。砂漠へ旅立とうとする息子の心など。


「……すので、よくお読みいただいて、納得いただけたら押印を」

 いつの間にか話が進んでいる。息子は真剣な表情で頷いている。賀白が言葉を切ると、契約書を見下ろした。相変わらず手書きの、茶色味がかった古い紙の。由美子が一緒に見ようとすると、すっ、と紙を移動して見やすくしてくれた。当たり前のことが大切な人に抱きしめられたように嬉しい。なぜもっと早く、こうやって近づくことができなかったのだろう。

「五十万……?」

 息子は俯いたまま眉間に皺を寄せた。由美子はもう恐れなかった。息子が嫌だと言うなら、それでも構わない。覚悟のない心は判断を鈍らせる。そう、またいつか、チャンスは巡ってくるかも知れない。いま焦って、こんなわけのわからない場所で妙な契約を交わさなくたっていいじゃないか。

「誤解なきよう。これはあなたの『夢』の値段とは違います。単に願いを頂戴するという、言わば承諾料です。これが何故かと言えば、我々も頂いた願いのすべてを有効に利用できるわけではありませんので。夢の価値……そこに値段などつけようがありません」

 うまい説得だ。由美子はちら、と息子を見やる。まだ難しい顔を維持してはいるものの、胸奥の警戒は解かれている。

「何に使うんです? 俺の夢」

 夢。賀白はあえてそう呼んだのだ。

 彼は心得ている。人間は大いなる矛盾を抱えた生き物であり、他人が用意した論理の螺旋階段を――例えそれが、目的地へと続く最短の道なのだとしても――、ただおとなしく言われたまま、こつこつ登っていくような真似はしないと。相手に寄り添うというのは、きっとこういうことだ。尊厳を保たせること。由美子は愕然とした。私はいままで何をしてきたのだろう。

「失われた人々のために」と賀白は言った。

 息子は挑戦的にはっは、と破裂音を交えて笑った。

「どこかの馬の骨のために、俺は夢を奪われるんだ。面白いな」

 賀白は黙って息子を見ている。落ち着いた目。言葉にはしないが伝わってくる。君が納得しないと言うなら、私は契約を諦めよう。

「いいよ」

 由美子は息子を見た。

「いいの?」

「なんだよ、母さんが売れって言い出したんじゃないか」

「でも……」

 続く言葉が出てこない。自分は一体何を望んでいるのか、由美子にはもうわからなくなっていた。この一年間、何度も何度も説得を繰り返してきた。最後の方はほとんど狂気にも似ていたあの熱情は、いったいどこへ消え失せてしまったのだろう。希求し続けてきたものがいざ目の前に置かれると、今度はそこから遠ざかりたくなる。木箱に詰めて蓋を閉じ、布膜を被せて納屋の奥へしまい込もうとするのだ。

 なぜ。何に怯えているのだ?

「五十万あれば、ちょっとした環境にアップデートできる。キーボードも新調できる」

「証文にも書いてあるとおり、頂く『願い』はお返しできない。もし、まだ夢を見続けていたいのなら……」

「いいんだ」

 息子は言った。そして机に両肘をついて腕を組み、前のめりになって小声で続けた。

「俺から夢を奪えるものなら、奪えばいい。それだけの夢だったってことだ。でももし、うまく奪えなかったとしても、金は返さない。それがフェアってもんだろ?」

 賀白は背もたれに深く体を預け、何度か頷いた後引き出しから葉巻を取り出した。銅色のライターで火をつける。なんだか急にふてぶてしく、威圧的だ。

「よろしい」

 そう言ってまた引き出しから小さな革製の包を取り出し、息子の前に差し出した。息子がスナップボタンを外すと、中からナイフが出てきた。

「やっぱり止めます」

 由美子は言った。

「契約するのは俺だ。母さんは口を挟むな」

「駄目よ、あなたは……あなたの夢は」

「母さん」

 息子は語気を強めて言った。

「いいって。俺も……心配かけて悪いと思ってる。マジでさ。俺だってどうにかしなきゃって考えてるんだぜ、いちおう。母さんが俺の作ってる曲、好いてないのだって知ってる。自分の曲が、自分でもどうにも色気がない、つまんないように思えることだってある。俺も辛いんだぜ。逃れられるもんならって、ときどきガチで考える。勉強もしてるんだ。でも頭が悪いんだよね、親父似なのかな。センスも……でもやりたいんだ。わかんないけど、それが俺なんだって。でもいいんだ。このままじゃ駄目なんだ。この金をもらったら家を出ていくよ。本当に夢がなくなっちまうなら、それはそれさ、案外気楽で楽しいものかも知れない」

 由美子は突然に夫のことを考える。結婚して二十余年、息子のことを相談するたび、なよなよと頼りない応対に愛想が尽きてきた、でも、そう言えば私はなにが良かったんだっけ、夫の何が好きだったの? 目の前の息子は夫の相似形だった。そうだ……私は……、

 息子が指を切り、赤い血が膨らんでいく。

「お願い、やめて」

 ぽとり、と紙面に鮮血が滲んだ。目の錯覚だろうか、うっすらとした赤みのある光の輪がそこから紙面全体に広がっていくように見えた。閉じられたはずの部屋の中にわずかに風が吹く。まるで生命を帯びたように、契約書が少しく呼吸したように見えた。



 SNSのメッセージが届いた。あのダイレクト・メールで賀白を紹介してきたゲイの男だ。由美子は少し迷ったあとで、短いお礼の返事を送った。

 息子は家を出ていった。部屋にあった一揃いの作曲道具はすべて売った。

「便利だねえ、メルカリ」

 別に悲しそうではなかった。そのことが由美子には、ひどく悲しかった。


 ――覚悟があれば、それも受け入れられましょう。


 作曲をやめたこと以外、息子は以前と変わりなかったが、どこか物事に対して楽観的になったようだった。久しぶりに会ったとき、息子は言った。

「諦めがついたっていうか、もう興味がなくなったんだよ。ぽっと火が消えたみたいに、べつに俺が作らなくたって同じな気がしてきてさ。いや、というか俺が作らないほうがいいんだよ、ネガティブな意味でもなくて、もっと偉大な音楽家たちがたくさんいるだろ、その卵が。俺はやっぱり音楽が好きだよ。でも自分が作ることには、もうあまり情熱がない。それよりずっと才能があって、人が見いださないような言葉を選び取って、俺なんかが思いつきもしないアレンジをぼんぼん生み出すような連中を応援したいって思ったわけ」

 いま息子は音楽スタジオでアルバイト生活を続けながら、正社員を目指して頑張っている。

「母さんのおかげで道がひらけた感じだよ、開放されたっていうかね、まあとにかくありがとう」


 賀白が買い取ったのはまぎれもない『願い』だった。それは作曲家になりたい、という息子の表面的な夢ではなく、人とは違う何者かになりたい、自分だけの人生を歩みたいという根幹の、非可換の願いだったのだ。それは本人にも意識できない、心のより深い領域に根ざし、息子を、息子の人生のあり方を支え続けてきたものだった。私はそれを奪った。

「人って変わるもんだな、まあでも別の道が見えてきたのはよかったんじゃないか。これで由美子も安心だろ」 

 夫は笑ってそう言ったが、由美子にはどこか寂しげに見えた。不器用でも夢に向かって邁進する息子の姿をかつての自分に重ねていたのかも知れない。嬉しかったのだろう。だから由美子がいくら説得を強要しても、強くは言えなかったのだ。



 ある日の午後、蔦のからまる古風な洋館の前に、ひとりの女の姿があった。

「いいのですか?」

 豪奢な赤いカーペットの敷かれた廊下の奥、アンティークの品々が彩る古めかしい部屋で、白いスーツの男は訊いた。

「はい」

 二度と奪わないために、彼女はそう信じて。いや、それはただの懺悔だったのかも知れない。すべてはもう手遅れなのだから。


「買い取ってください、私の……、

 他者を自分の思うように変容させたいという、この愚かな、傲慢な……願いを」


 差し出された紙面の上に、透明な液体が小さな染みを作った。














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願いを買う人 レオニード貴海 @takamileovil

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