願いを買う人

レオニード貴海

第1話

 雨音は街に静けさを届ける。


 由美子は不審げに男を見た。開口一番のセリフ、なんだかナルシシスティック。

「名もなき灯油売りの言葉です」

「今日は息子のことで」

 息子。いつまでもその言葉は過去の流れの中に立つ木の杭、名のない墓標。

「伺ってますよ」

 男は慈しむように頷いて軽く手を差し出し、着席を促した。ほのかに黄色みがかった白スーツ。似た白百合色のつば広帽。優に百八十センチは超えているだろう高身長。昔見たハリウッドのギャング映画を思い出す。夫が好きで金曜ロードショーやらなにやらでよく一緒に見た。あの、映画が始まる前の切なげな音楽ときらめく黄金の海。テレビで見る映画と言えばいまだにあの場景が蘇る。つい先日Youtubeで再生したら懐かしくて少しだけ悲しくなった。用意された革張りの客用椅子に腰掛けるとぎしい、と骨組みの軋む音がした。大きくなりたるんだお尻、無残なシルエットを造形する腹囲、むくみやすいふくらはぎ、つかれやすい心。時の流れは残酷だ。

 緩やかなカーブを描く、古風なマホガニーの威厳あるデスク。だが客を迎えるにはいささか混雑気味だ。鉄だか銅だかアルミだかの、種々の動物を象った置物たちがそれぞれの持場を占有し、万年筆に小物入れ、置き時計、卓上ランプ、灰皿、ライター等々が雑然と配されている。電子機器の類が一切見当たらない。書類の横にはそろばんが置いてある。そろばん!

 男は帽子を脱ぐことなく紙の書類に目を通しながらすりすりと顎を擦る。よほど足が長いのだろう、席についた男はさきより随分と馴染みやすくなったように思えた。

「契約は息子さんありきですから、説得の必要がありますがね。相場からすると三十万ほどかな」

「結構です」

 金属製のひねりを回してバッグから財布を取り出す。スナップボタンを外したところで視線に気がついた。顔を上げ男の目を初めてちゃんと見た。どこか幼さの残る澄んだ瞳。

「お支払するのはこちらですよ」

 由美子は赤くなった。

「あら、ごめんなさい。そうでしたね」

 最初はもちろん信じなかった。願いを買ってくれる人がいる。SNSで懇意になった自称ゲイの男にDMで紹介された。眉唾ものだったが由美子には余裕がなかった。現実に悪夢が始まったのなら、夢のような話にでも飛びつくほかない。ここから抜け出せるなら。終わりのないナイトメアに一筋の光を引き込めるのなら。いや、光など必要ではない。外がどのような世界でも、ここではない場所ならどこでもいい。

「ここへやってくる人たちは大抵、袋小路に追い込まれています。だがいまいちど見返してください。後悔先に立たず。ですが覚悟があれば、それも受け入れられましょう」

「なにか危ないことをするんでしょうか?」

 男は優しげな笑みを作った。悪い人間ではないのだ。そう思わせるに十分な、暖かみのある、自然な、人懐っこい笑顔だった。

「ご心配なく。血印をいただきますが、傷などすぐに癒えますよ。ただどのような治療――あえてそう呼ばせていただきますが――もそうですが、リスクがゼロではありません。願いとはそういうものです。つまるところ欲望が、我々あらゆる生物種を今日まで存続させてきたわけですからね」


 後日再び合う約束をして、二人は別れた。帰り際、揺れる電車、窓外から注ぐ雨上がりの夕日に照らされた男の名刺を見る。ざらついた紙に、文字はレーザープリンタではなく素の黒インクを手書きで。固定電話の連絡先と、少しく奇妙な名前。


 御所望買取 賀白エシ


 家が近づいてくる。息子の待つ家が。

 車両が自宅最寄りの駅に着く頃、陽は既に沈み、青暗い空が街に、音のない闇を降り注いでいた。


 ◇


 息子を説得するのには時間を要した。容易でないことはわかっていたものの、覚悟が足りていなかったらしい。いや、本当は自分が何をしようといるのか、わかってなどいなかったのだ。由美子は最後に言った。

「それがあなたの本当の夢なら、奪われようもないんじゃないの」

 ソングライターになる。それが息子の、意味のない夢だった。ひどい言い方、自分でもそう思う。だけど、その場所にたどり着くには、息子では力不足に過ぎた。才能も、コネクションも、圧倒的な努力もない。そして、どれだけ好意的に受け入れようとしても、息子が生み出したものたちははっきりと駄作だった。稚拙なテーマ、月並みな言葉、平凡な声、説得力に乏しい歌唱力、そしてなにより、周りが見えていなかった。可能性がなかった。種に水をやり、日の光を与え続ければいつかは、芽が出るかも知れない。でも種が腐っている。ひび割れ、中からは白いぬめりのあるおぞましい液状物が流れ出している。新しい種が必要だ。息子のいまの夢には希望がない、だが息子にはまだ、希望がある。由美子はそう信じていた。そう信じるしかなかったからだ。


 一年ぶりに訪れる洋館はどこかよそよそしいような印象があった。かつて賀白と出会った日には雨が降っていたが、今日は雲ひとつない快晴なのだ。何が悪いのかわからない。息子という不確定要素が原因か、あるいは出口を目の前にして、外の世界に怖気づいているのか。

「金持ちそうだな」

「そうね」

「約束だぞ」

 願いを売って、それでもまだ夢を追う意思が残っていたなら、金輪際干渉せず、息子の夢を否定もしない。家を出る直前に半ば無理やり交わされた口約束。由美子は既に後悔し始めていた。賀白がどのような手段を用いるのか知らないが、もしも、その催眠術のようなものが失敗したら? 最後の希望は永遠に潰える。願いを奪う特別な力。そんなものが本当に存在するのなら、どうして世界は無意味な夢にあふれているのだろう。


 通された部屋で、賀白は変わらぬ白スーツ姿で現れた。軽く挨拶を交わす。

 由美子は時間が巻き戻されたような奇妙な感覚を味わった。机の上の置物たちが、記憶からまるごと抜け出てきたように、すっかり同じ配置に見えた。それぞれがなにか重要な、互いに非可換な役割を持っているみたいに。そろばんまでが、あのときのまま書類の隣に横たわっていた。賀白は由美子ではなく息子の目を見て口を開いた。

「はじめまして。さっそくビジネスの話を。悪いが無駄話は苦手なんです」

 由美子は嫌な予感がした。無駄話が苦手?

「そのほうが助かります。俺、忙しいんで」

 アラウンド・サーティに片足を踏み込んだ息子が堂々と応える。ちょっとした驚きに頼もしく感じる反面、不安も増す。いつもは家で部屋にこもり、ひたすらDTMを叩きながらくだらない歌を作っている息子。夜警のアルバイト生活七年目。人付き合いは苦手。今日は覚悟を持ってきたのだろうか。信じていない素振りを見せながら、超能力を鼻で笑いながら、自分よりまだ、現実に近い場所にいる。

「まずはあなたの願いを見させていただきます」

「ふうん?」

 息子は少しく恐れているようにも、好奇心に煽られているようにも見えた。なるべく内奥の想いがはみ出てこないよう気を使ってはいるが、表情がこわばり、声の中にはわずかな震えが混じっている。由美子は怖くなった。

「指紋でも見るんすか、それとも、何か喋れば?」

 賀白はじっと息子の目を見、息子の目が同じように賀白の瞳を覗き込んで落ち着くまで、口を閉じて待った。それから丁寧な声で言った。

「視ました。ありがとう」

 息子は由美子を振り返り、「速いね」と言った。虚勢にも見えたが、由美子はただ肩をすくめることしかできなかった。そのとき、不意に気がついた。自分の中でひとりでに組み上がった論理の塔があっけなく崩れ落ちるのを見た。そうだ、私はこうして、息子からいつも離れたところにいた。息子が一人で戦っているときに、私はその場ではないどこかべつの場所にいた。私は遠くから、机上の計算で奪っていただけだ。何を?

 息子が見ているものを一緒に見ること。

 ――機会を。












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