黒い計略

松長良樹

黒い計略


 それを初めて見たとき中西雅司の身体は小刻みに震えだしていた。深呼吸をしようが声を出そうがそのふるえは容易に治まりそうになかった。


 見た相手が悪魔である。黒いマントを羽織り、長身でステッキをついていた。金色の三日月をはめ込んだような眼球をしている。まるで猫の目だ。口元には人を蔑むような笑いが貼り付いていた。鷲っ鼻で全体に西洋人を思わせる風貌をしていた。


 悪魔は恐怖のにおいを撒き散らせ、憮然ぶぜんとしてそこに立っていた。しかし悪魔を呼び出してしまったのは他ならぬ中西自身だ。いまさらこの場から一目散に逃げ出すわけには行かなかった。


「用件は何だ?」


 悪魔がしゃべった。冷たく非人間的な口調だった。ここは中西雅司の自宅の書斎である。時間は午前二時。大きく豪奢な姿見が目の前にあった。中西はある目的の為に向かい合わせの鏡の間から悪魔を呼び出したのである。

 世界文学の翻訳を生業にしていた彼は、ドイツ語で書かれた魔法大全の中から悪魔を呼び出す方法を独学で習得したのだ。魔法大全は十八世紀の貴重な文献でもあった。


「俺様を呼び出した理由はなんだと訊いているんだ」


 悪魔は怖くてさっきから一言も発する事ができない中西をいらついた顔で睨んだ。中西が意を決したような表情をした。


「つ、妻を殺して欲しいんです」


 中西は声を震わせ感極まったようにそう言った。


「――なにっ? 妻を殺せだと」


 悪魔の声には迫力があった。その声は圧倒的な存在感を備えていた。周りの空気が歪むようだった。


「は、はい」


「随分と悪いことを考えているようだな。おまえ」


 悪魔は恐ろしい醜悪な笑みを浮かべた。


「……」


「妻が邪魔なのか。憎くて殺したいのか?」


「え、ええ。まあそのような」


「お前は自分本位な男らしい」


「――いえそんな」


「自分本位。自己中心……。俺はそういう奴が好きだよ。俺と似ているからなあ。己の欲望の為なら平気で人を殺す。しかも無慈悲に」


 悪魔らしい言葉だったが、悪魔がそれを言うと真に迫っていて中西の体中から冷たい汗が噴出してきた。


「契約をしようかと思いまして」


 中西は生唾を飲み込みながらそう言った。


「契約? 古風だな。願い事と魂とを交換しようというのか」


「はい。そのつもりです」


「わかった。面白そうだ。しかし契約制度はもう随分前に廃止になった。今は契約なしでも人間の願いが悪魔の理に適うものであれば、それを行う。で、お前の妻をどんな方法で殺す? 生きたまま五体をばらばらに切り裂き腸を野犬にでも喰わせようか?」


「そ、そんな残酷な事はやめてください。ただロープかなにかで首を絞めていただければそれでよいのです」


「絞殺か。つまらんがまあ簡単な事だ。しかしなぜ奥方を殺す?」


「実は愛人に結婚をせがまれまして。離婚したくても妻は離婚に応じません」


「愛人の為か。愛人の為に妻が邪魔になったんだな」


「はい。できれば私の目の前で妻を殺して欲しいのです」


「おまえの心は悪魔のようだな」


「……お引き受けいただけますでしょうか? 悪魔様」


「よかろう。お前の願いは悪魔の理に適っている。明日の午前零時に望み通りお前の妻を殺してやろう」


「ありがとうございます。悪魔様」


「俺の名はメフィストフェレス。憶えておけ」


 悪魔は中西の望みを無条件で承諾したようだった。そして胸糞の悪くなりそうな黒い笑いを残してその場から掻き消えた。

 

 ――実は中西にはある計略があった。

 

 それはビデオを悪魔に感づかれないように用意して一部始終を撮影する計画だ。計略には二つのメリットがあった。まず完全なアリバイづくりだ。もし妻殺しの容疑が中西にかけられたとしても悪魔が妻を殺す時の映像があれば無罪を証明できる。


 そしてもう一つは悪魔の存在を証明できるという事だ。資料としてその映像に大変な価値がでるだろうし、カルト教団、マスコミ関係にはおおいに魅力的な映像のはずだ。高い値がでるに違いない。

 中西は本棚の奥に隠したビデオカメラを取り出し再生してみた。


 ――写っていた。悪魔は鏡の間から出現し、中西と会話する悪魔の様子が克明な映像となって残っていた。中西は映像の悪魔を眺めながら、思わずしめしめとほくそ笑むのだった。



 中西の愛人の里佳は若くて美しい女だった。素直な性格なうえ、端正な顔立ちに艶かしい四肢を持ち、小悪魔的な危険な魅力に満ちていた。

 まるで蛇のように情欲が旺盛で中西の身体を生クリームのようにとろけさせた。中西と肌を重ねるたびに身体を熱くし、たまらない吐息を漏らした。中西は里佳に夢中だった。


 それに比べて妻の雅代は酷い女だった。以前より収入の減った中西を平気で罵ったし、中西と居る時は常に機嫌が悪いのか大抵鬼のような顔をしていた。かつての愛とか恋とか言う感情はとうの昔に破錠し中西の欠点ばかりを指摘してくる冷血動物のような女だった。

 男女の関係はとうの昔に消えさり、一緒に居てやっているのだから感謝しろ、ぐらいの勢いで中西にあたってきた。忌々しく腹がたったし、事故死でもしてしまえばいいと中西はいつも思っていた。


 翌日の午前零時、中西はまんまと妻を書斎に呼び出していた。眠そうな眼で訳もなく中西に呼ばれた妻は散々彼を罵倒した。『なに考えてんだ。この馬鹿男』とまで妻は甲高く言い放ち、鬼のような形相で中西を睨んだ。


 悪魔が鏡から出現して雅代の背後に忍び寄った。中西はえらく静謐せいひつな態度でじっとその様子を観察していた。悪魔の手には黒い紐が握られていた。

 まるで鞭のような革紐だ。雅代が気が狂ったように悪口雑言を彼に浴びせかけてきた。しかし瞬間に妻の目玉が飛び出すほど見開かれて声がぴたりと止んだ。革紐が雅代の首に食い込んだのだ。中西はその様子を自分でも驚くほど冷静に見ていた。哀れみのひとかけらさえ感じなかったのだ。


 雅代が異様なうめき声を残して床に転がった。ぐったりとして動かなくなった。


「望みは叶えたぞ」


 悪魔は一言そういい残すと不気味に微笑んで鏡の中に消えた。


 翌日中西は妻の雅代が悪魔に殺されたと警察に届けた。刑事に死体と家中を調べられ、中西は嫌疑を着せられた。予想どおりでもあった。里佳まで調べられ、たちまち中西は容疑者になった。

 

 しかし中西には切り札があった。

 ――ビデオ映像だ。下見を何度もしたがそこには悪魔が雅代の首を締め上げる恐ろしいシーンが記憶されていた。中西は刑事と里佳の前でそのビデオを再生した。 

 刑事は無表情でその映像を眺めていた。タバコに火をつけ静かに中西を見つめる。


 雅代の苦悶の表情が大きく写し出され、そして悪魔が革紐で後ろから妻の首を……。しかし、そんなばかなと中西は思った。


 その悪魔の顔は、中西に驚くほど似ていたのだ。いや、似ているどころではない。中西自身なのだ。 ――中西の心臓が張り裂けそうになった。


 地球が逆回転を始めたような感覚だった。中西は目を擦りもう一度映像を再生してみた。何度再生しようが妻の首をしめて卑しい笑みを浮かべているのは他でもない中西自身であった。


「こ、こんなばかな事って、有り得ない。ちっくしょー! 嵌めやがったな悪魔野郎!」

 

 中西は我を忘れて怒鳴っていた。世界の全てが音をたてて崩れてゆくようであった。


「わかった。署でおまえの話をゆっくり訊こうじゃないか」


 無表情な刑事が眉間に皺を寄せてそう言った。


「か、彼の精神鑑定をお願い致します」


 ――美しい里佳は震えながら警察に連行される中西をじっと見つめていた。

 

 そして中西の姿が彼女の視界から完全に消えると、なぜかくすくす笑い出した。と、そこに何処からともなく悪魔が現れて里佳を強く抱きすくめた。


「どうだ、うまくいったろう。里佳」


 悪魔がそう言うと里佳は悪魔と唇を重ねながらこう言った。


「監獄の中で彼をうまく殺して頂戴ね、遺言はもう彼に書いてもらってあるんですもの。そうすれば彼の財産は全部わたしのもの……。 

 そして中西の魂はあなたのもの。うふふっ、こうなったのも殺人なんて恐ろしい事をあなたに頼んだ中西が悪いのよ」

 

 黒い影が二つ、恐ろしい笑いにむせびながら夜の中を踊っていた。



                     


                 了


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黒い計略 松長良樹 @yoshiki2020

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