第12話 バーバー・サトー

 「このような感じで、いかがでしょうか」


 主人は私に尋ねた。私はゆっくりと首を動かしたり、左手で触ってみたりして、自分の髪を確認した。完璧だ。いつもの店よりもはるかに上手だ。ヘアカットに関しては、私は大満足だった。


 しかし、何というか、切ない。私の気持ちは暗かった。


 のどの奥の方を、硬く固まった空気が通る。一つ、また一つと。痛みを伴いながら。それらはだんだんと、列をなし、渋滞を起こし、息を詰まらせる。私は、んっと力を込めて、それらを飲み込んだ。さらに、そのままの勢いでのどを全身全霊の力で震わせ、私は声を精一杯に出した。


「はい。大丈夫です」


 思っていたよりもスムーズに声が出た。だが、かなり大きな声が出てしまったようだ。店主は、少し驚いた様子で、鏡越しに私の顔を見ていた。恥ずかしい。


 いや、そんなことはどうでもいい。本当は、大丈夫じゃないんだよ。だってそうだろう。

 確かに、カットは完璧だけど……。目の前に映っているのは、いつもの自分じゃないか。何でもない、何の価値もない、いつもの自分じゃないか。そんな自分で大丈夫なはずないだろう。


 主人は、ドライヤーで丁寧に私の髪を払ってくれた。ほかに客がいないからか、私の頭に一本でも残ることがないように、丁寧に、丁寧に、払ってくれた。それから私に被せていた布とタオルをそっと取り、手際よく道具を片付けていった。


「お疲れ様でございました。こちらでございます」


 案内に従い、私はレジの前に立った。レジの機械は年季が入っていて、すごく古そうに見える。機械というより、道具といった方が正確かもしれない。いつ造られたものなのだろう。主人は、慣れた手つきで気持ちのいい音を奏でながら、それを操作していた。


「お会計、千百円になります」


 なんだろう、寂しそうな声だ。これだけ髪を切っても千百円なのか…と、社会の不条理さでも憂いているのだろうか。それとも、単に疲れてしまっただけか。


 私は静かに代金を支払い、静かに出口の方へ向かった。ドアの前に立つと、しばらくの間私はそこから動くことができなかった。動きたくなかったのかもしれない。


 私は、居ても立っても居られなくなって、体中の筋肉に私のすべてを委ねるようにして主人の方に振り返った。彼は、やはり朗らかな笑顔で、私を見ていた。


「あの……」


「なんでしょう」


「その……。また、来てもいいでしょうか」


 その瞬間、主人は涙をこらえているような顔になった。だが、すぐに顔中にしわをパアッと咲かせ、満面の笑みを私に見せてくれた。


「ありがとう。でも……、すまないね。今日で店じまいなんだ。だからね。あなたが最後のお客さんなんだよ」


「そう…なんですか。わかりました……」


 そうか、そうだったのか。だから、あんなに丁寧にやってくれたのか。だから、あんなに寂しそうな声だったのか。主人は一体どれぐらいこの店をやってきたんだろう。十年二十年。いやもっとか。五十年ぐらいだろうか。


 いずれにせよ、今日がその最後の日なんだ。店主にとっても、私にとっても。そっか。もうこの店には来られないんだ。もう、二度と。私は、そっと、丁寧に、ゆっくりと、ドアを引いた。


「ありがとうございました」


 私はそう言って、この「バーバー・サトー」を出た。うまく声にできたかどうかはわからないが。

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