第11話 さよなら、さよなら

 それから、どれぐらい時間が経ったかはわからない。三十分かもしれないし、もしかしたら二時間かもしれない。どちらにせよ、いくらなんでもかかり過ぎだ。どうなってるんだ、一体。私は睨むように鏡を見た。


 なん……ですかこれは。私は、鏡に映る彼が誰だかわからなかった。全く知らない人が、そこに映っているのだ。今まで目の前のコレを鏡だと思っていたが、まさか実はガラスだったのか⁉


 しばらくの間、私は彼のことをジーっと見ていた。彼もまた私のことをジーっと見ていた。やっぱり、これは私だ。なんとなく面影がある。髪型が変わり過ぎて勘違いしてしまった。


 それにしても、一体何なんだ、これは。見たこともなければ聞いたこともないし、想像したこともない、得体の知れない髪型だ。なんというか、言葉では上手く言い表せない。


 全体的な雰囲気は、「百獣の王」ライオンのようでもあるし、「サバンナの掃除屋」ハイエナのようでもある。髪の毛の一本一本は、直線的で尖っているようにも見えるし、滑らかで温和なようにも見える。好きか嫌いかと聞かれれば、どちらでもない。ただ、見ていてなぜだか非常に不安を感じる。そんな髪型なのだ。


 ここで声を掛けてみるのはどうだろう。私は、ほんの少しの好奇心を、汗にまみれた手で握りしめながら、そう思っていた。


 もしかしたら、自分を変えることができるかもしれない。そのきっかけになるかもしれない。不思議とそんな気がしていたのだ。


 いやいや、待て待て。いい加減にしろ。髪型を変われば、人も変わると本気で思うのか。そこら中にいる凡人たちが、今を時めくアイドルの髪型を真似したって、金メダルを獲ったアスリートの髪型を真似したって、彼らは何一つ変わらないだろう。流行の最先端をゆく髪型に、哀れにも置き去りにされるであろう平凡な顔立ちはそのまま。歩く、走る、階段を上る、満員電車に耐える、それぐらいしか使い道の無いかわいそうな運動能力もそのままだ。髪型を変えたところで、何一つ変わりはしない。その人の今はもちろん、「未来」も。つくづく残酷な話だが。


 いやいや、うるさいうるさい!


 確かに、目の前に見える得体の知れないこの髪型に変えたとしても、結果的に何も変わらないで終わるかもしれない。きっかけにすらならないかもしれない。


 けれど、変わろうとすること、それ自体がきっと一番大事なんじゃないか。たとえ、細い細い蜘蛛の糸であっても、それにしがみついてでも自分を変えようとする気持ち。その気持ちが、本当に自分を変えてしまう。そんな力を持ってるんじゃないのか。


 これからだ。これから、何が何でも今の自分を変えてみせる。そして、自分の「未来」を、私がこの手で勝ち取ってみせる。そのために、私はこのタイミングで主人に声を掛けるんだ。掛けなければいけないんだ。


 私の声は、のどを通過し、もう既に前歯の辺りまで来ていた。




 でも、結局何も言えなかった。私の口からは、無音の息が、無様に吹き出ただけだった。少しずつ少しずつ、あの得体の知れない髪型は見えなくなっていく。その代わり、今まで散々見てきたいつもの髪型が、私を嘲笑うように徐々に徐々にその姿を見せた。私はこれからどこへ行くのだろうか。


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