第10話 さよなら、憧れの人

 「お気軽にお声掛けください。お声掛けいただきましたら、その時点でカットを終了いたします」


 まただ。私のSへのどうしようもない思いに救いの手を差し伸べるように、あの貼り紙に書かれた言葉が、私の脳内で、何度も何度も音をたてた。


 もしかしたら。もしかしたら、ここで声を掛ければ、私はSのようになれるかもしれない。いや、やっぱりそんなことは……。でも別にいいじゃないか。Sになれなくたって。そもそも、この髪型、気に入ってるんだし。うん。今回は声を掛けてみるか。


 いやいや、待て待て。よく考えろ。確かにこの髪型は、さっきの「おぼっちゃまヘア」と違い、おかしな髪型ではない。だが、もし周りの人間に、私がSを意識していると思われたらどうする。恥ずかしいではないか。馬鹿にされるかもしれない。自分なんかが、あのSに憧れているなんて知られたら……。それにだ。仮にSのようになれるとしても、本当にそれでいいのだろうか。彼のようになれた私は、本当に私なのか。単なるSの模造品じゃないのか。私はそれで本当に満足か。自分の「夢」を、その通り綺麗に叶えても、それは本当の意味で夢を叶えたとは言えないんじゃないだろうか。


 結局、私は声を掛けるのを止めた。声を掛けるか掛けまいか迷いに迷い、気が付くと、鏡にエラそうに映っているのは、もう既に何でもない自分だったのだ。私はSの模造品にすらなれない。そういうことなのか。


 ボロボロになった悔しさが、私の中に雑に投げ捨てられた。私の憧れの人も、もうどこかへ行ってしまった。


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