第9話 俳優S


 それから五分経った。私はこの五分間ずっと、五才の頃の思い出を頭の中で反響させて過ごしていた。むなしいだけだ。それならさっき声を掛ければよかったのに。そんな声が四方八方から私目掛けて飛んでくる。私は、それらからひたすらに逃げ回った。そうして、もう一度鏡に映った自分に目をやった。


 なんじゃこりゃあ。私は思わず見とれてしまった。間違いなく、これはいつもの髪型ではない。名前はわからないが、非常に爽やかさを感じさせるヘアスタイル。それにかっこいい。老若男女問わず、この髪型には好感を持つに違いない。たとえるなら、五月の風といったところか。


 なにはともあれ、私はこの髪型が好きだ。またカットの過程で、一時的にこうなっているだけなのだろうか。


 この髪型、確かに私は見たことがある。間違いない。私の憧れの人、俳優S。彼と全く同じだ。Sのことは、子供の頃からテレビや映画でよく見ていた。彼は当時から一流の俳優で、抜群に人気があった。彼の魅力はやはり、圧倒的な演技力だ。コメディーチックな役でも、シリアスな役でも完璧に演じ切る。


 私は、昔からあの突き抜けた演技が大好きだった。だが、その演技力だけが彼の魅力ではない。整った顔立ちと、知的な雰囲気。それらも相まって、俳優としてだけではなく、一人の人間としても人に好感を持たれる。そんな人だ。


 そんな彼も今ではすっかりオジサンと言われる年齢になり、奥さんと子供にいる幸せな家庭を築いているらしい。最近はメディアへの露出も減ってしまったが、私の彼への憧れはけっして薄れることはない。むしろ、日に日に膨れ上がってゆく一方だ。私が役者を目指すようになったきっかけは、何を隠そうSなのだから。

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