第8話 さよなら、おぼっちゃま
「お気軽にお声掛けください。お声掛けいただきましたら、その時点でカットを終了いたします」
私の脳裏を、あの貼り紙に書かれていた言葉が、ドカドカと走り抜けた。ここで私が主人に声を掛けてカットを止めれば、私の髪型はこの「おぼっちゃまヘア」に決まる。そうすれば、あの頃に、五才の頃に戻れるんじゃないか。そういう意味で、あんな貼り紙を貼っているんじゃないのか。一か八か。声を掛けてみようか……。
いやいや、待て待て。冷静になれ。さすがにそれはない。それが出来るのは、ご都合主義の小説の中だけだ。ここは現実。「タイムスリップ」なんてあり得ない。もちろん、過去に戻れたならいいが、戻れなかった時はどうする。あんな恥ずかしい髪型で、少なくとも数日は過ごさなければならないのだぞ。それでもいいのか。
結局、私は声を掛けるのをやめた。店主は、どんどん髪の毛を切り落としてゆく。手際よく、かつ無慈悲に。
ゆっくりと「おぼっちゃまヘア」は崩れ去り、私の心には、ほんの少しの安心感と、それを覆いつくすほど巨大な寂しさだけが残った。五才の私は、もうずっと遠くの方へ行ってしまった。
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