間話 エディンバラの悩み
アラタが家に帰る姿を、夜空に紛れて消えていたヴィルヘルミナはただじっと見つめる。
その姿が家に戻ったのを確認すると、再び闇の中から出てきた。
「おいエディ、もう行ったぞ」
彼女がそう言うと、闇の中からもう一人、少女が姿を現す。
エディンバラ・エロース・エーデルハイド。
真祖の吸血鬼であるヴィルヘルミナが生み出した唯一の眷属である彼女は、少し悩ましい表情をしながらアラタたちの家を見る。
「……母よ。私はどうしたら良いと思う?」
「人に尋ねるならもう少し言葉を足せ。私は心を読むことは出来ないんだ」
呆れた顔をしたヴィルヘルミナは、そう言いつつも彼女がなにに悩んでいるのかは理解していた。
それでも敢えて言葉を促しているのは、それが必要なことだと思っているから。
「レイナは私が育てた魔法使いだ。そんな少女が新たな門出を迎えるというのに、私にはその思い出がなに一つ残っていない」
「それがお前の望みだったんだろう? そしてレイナもまた、それを望んでいる。だというのになにが問題なんだ?」
「……わからない。だが、このままだと駄目な気がする」
エディンバラは記憶喪失になった。
それを望んだのは自分自身であることをきちんとわかっている。
今こうして彼らと一緒に笑い合えているのは、自分に記憶がないからだ。
――もし記憶が戻ったら、私は今の穏やかな生き方が出来るだろうか?
ずっと無理だと思っていた。
七天大魔導たちから過去の話を聞いて、如何に自分が酷い人間だったのかをわかっている。
勇者たちと出会ったとき、自分を怪物のように恐れていた気配を覚えている。
なにより、レイナを育てるために行ってきた厳しい修行の数々は、到底許されるべき話ではないだろう。
「私は今の生活を好んでいる。ゼフィールと共に生活し、スノウを世話して、この島の住民と交流をする。こんな穏やかな日々をずっと望んでいたはずなんだ」
「そうかもな」
「この島にやって来て、母にも会えた。私は覚えていないが、過去の私にとって貴方に会うことが人生の大半を占めていて、それが果たされたときの歓喜の感情は生涯忘れないだろう」
ヴィルヘルミナに言うためか、それとも自分に言い聞かせるためか、彼女ももうわからない。
満月を見上げ、胸に空いた穴を埋めるように自分の手を当てる。
「それでもなにか、大切なものが足りていないと心が言っているんだ」
「……つまり、お前は記憶を取り戻したいのか?」
「必要ないと思ってた。記憶がないままでも幸せだと思っていた。だが、レイナが結婚すると聞いて、このままではいけないと思ってしまった……」
エディンバラは顔を下げ、アラタたちの家を見る。
記憶を失ってこの島にやって来て、初めて出会った人間。
たとえエディンバラが記憶を取り戻しても、絶対に勝つことの出来ない神の芸術とも言える最強の存在。
共に来た七天大魔導の面々から聞いた過去の自分は、終末の怪物や史上最強の魔法使いと呼ばれ、暴君だったらしい。
記憶を取り戻せば、今のように穏やかな日々に幸せを感じるとこは出来ないかもしれない。
だからこそ記憶を取り戻したくないと思っていたが……。
「アラタがいれば……いや、この島であれば私が記憶を取り戻しても大丈夫なのかもしれないと、そう思えるようになっていたんだ」
終末の怪物が可愛く思えるような最強の存在ですら友人と言い、誰が相手でも恐れることなく接して一緒に楽しもうとするアラタ。
最強種と呼ばれる彼らもまた、楽しそうに笑い合い手を取り合った。
きっと、過去の自分は強すぎたがゆえに孤独だった。
それゆえに他者を遠ざけようとした。
だがこの島であれば……。
「母は、私が記憶を取り戻しても見捨てないか?」
エディンバラが不安そうに聞くと、ヴィルヘルミナは呆れたような、優しげな顔をする。
「見捨てるわけないだろうが。お前は私の……唯一の子だからな」
「そうか……」
「お前が消したいとすら思った過去の記憶。それを取り戻したいと思っているのはきっと、師として、母としてレイナをきちんと送り出したいという想いが残っているからだろう。母の想い、今ならわかるだろ?」
己が最も信頼する母からの言葉。
それを言われて、ストンと胸に落ちた。
「お前がそう願うなら……素直に頼んでみろ。あのお人好したちはきっと力になってくれるさ」
「ああ。一度聞いてみることにする」
そうしてエディンバラは地上に降りた。
今は深夜で、まだ寝静まっている時間。
どうやらまた、アラタの寝所に潜り込もうと思っているらしく、そんなことをしたらまたレイナを怒らせることになるとヴィルヘルミナは思ったが……。
「まあそれはそれで面白いからいいか。スノウは喜ぶだろうしな」
どこかズレた娘を見下ろして苦笑しつつ、アラタたちが住む家の屋根に降りる。
そして空に浮かぶ満月を見上げながら、どこからともなくワインを取り出した。
「この島もずいぶんと騒がしくなってきたが……まあ悪くない」
長く離れていた娘の成長を想いつつ、ワイングラスを掲げてから一口。
今まで飲んだどの酒よりも美味しく思えた。
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