第98話 温泉

 最初に言っておこう。

 これは、不可抗力というやつである。


「あ、ぱぱだー!」


 目の前には桃源郷が広がっている。

 いや、桃源郷といっても、温泉なんだけど……。


「え、アラタ……? 嘘! なんで⁉」

「おにいちゃんも来たんだねー!」


 三者三様の反応。

 そして当然、温泉に来ているのだから俺の恰好は裸だし、歩いて行った先にいる彼女たちもまた、衣類など着ているはずがない。


「……」


 目を、逸らさないと……。

 なんて心で思っているふりをしながら、俺は少し前のことを思い出す。




 ギュエスが気絶し、サクヤさんに介抱されたあと。

 しばらく一人で月見酒を楽しんでいると、後片付けを終えて戻ってきたサクヤさんから温泉に入ることを勧められた。


「レイナ様たちも先に向かってますよ」

「あ、そうなんですね。あれ? でもスノウたちは寝てたんじゃ……」

「それが、お布団に入ろうとした瞬間、目が冴えてしまったらしく」


 ――ルナちゃんも、スノウちゃんも元気いっぱいになってました。


 そう繋げたサクヤさんは、微笑ましい光景を見たような、大変な状況だったような、複雑そうな顔をしていた。

 それだけスノウは元気いっぱいな状況だったのだろう。


「あるあるだなぁ」

 

 子どもというのは不思議なもので、寝たと思ったら起きてきて、しかもテンションがめちゃくちゃ上がるときがある。

 スノウのパワーは、ティルテュやカティマすら振り回すくらいだし……。


「温泉の話をしたら、目を輝かせて行きたがったので、先に案内させて頂きました」

「それじゃあ俺も、せっかくだし行かせてもらおうかな」

「はい。拭きものや着替えは後ほどご用意しますので、ご案内しますね」


 サクヤさんと一緒に家を出て、少しだけ離れたところに、大きめな木造の建築物がある。

 どうやらそこが脱衣場になっているらしく、その奥に鬼神族自慢の温泉と繋がっているらしい。


「温泉か……」


 正直言って、とても楽しみだった。

 やはり日本人で温泉嫌いな男はいないだろう、などと思う程度には俺も好きだ。


「ブラック企業で働いていた人間って、絶対一度は温泉巡りを夢見るもんな」

「ブラック企業ですか?」

「ああ、俺の昔いたところ、かな」


 案内してくれているサクヤさんが疑問に思うが、説明してもいいことなんてないので、笑って誤魔化す。

 もちろん例外はあると思うが、多分みんな一度は考えると思うんだ。


 ブラック企業を退職して、自転車で日本一周するんだとか、温泉巡りするんだというのは定番の妄想だ。

 ついでに言うと、いざ本当に退職したらそういうことはしないでネットサーフィンとかするのもまた定番。


 とはいえ、それが悪いなんてことは絶対にない。

 苦しいときに夢を見るのは悪くないし、実際に叶える必要もないんだから。

 

「こちらです」

「おお、立派だ」


 案内された木造の建物に入ると、左右に入口がある。


「左が男性用の脱衣所で、右が女性用です。ふふふ、今日は貸し切りですよ」

「え、いいんですか?」

「はい。とある方が、せっかく来た客人なのだからそうした方がいい、とアドバイスをくださったので」

「へぇ……それは申し訳ないなぁ」


 とはいえ、貸し切り温泉なんて本当に夢のようだ。

 そのアドバイスをしてくれた人には今度お礼を言わないと。


「それでは私は着替えなどを取ってきますので、ごゆるりと」

「ありがとうございます」


 一度家に戻るサクヤさんを見送って、俺は脱衣所で着物を脱ぐ。

 皺になったら申し訳ないが畳み方とかわからないな、と思っていたらテレビとかで見たことのある吊り十字があった。


「とりあえずこでに袖とかを通して、あとでサクヤさんに聞けばいいか」


 そして満を持して扉を開くと、そこには大量の湯気と広大な温泉が広がっていた。


「おお、これはすごい!」


 近づいてみると濁り湯らしく、乳白色が広がっている。

 あたりは木々と岩に囲まれていて、自然豊かな雰囲気が実にいい。

 温泉自体がかなり大きく、しかも湯気のせいで奥まで見渡せないが、あとでぐるっと一周してみたい雰囲気だ。


「なんたって貸し切りだからなぁ……ん?」


 今、ほんの一瞬だけど湯気の奥から人影が見えたような気がするけど……。


「気のせいかな?」


 サクヤさん曰く、ここにいるのは俺たちだけだろうし、脱衣所は男女で分かれていた。

 それにもし、スノウたちがいたらはしゃいでもっと声とかが聞こえてくるはずだから、女湯は結構離れているのかもしれない。


「しかし、本当にすごいなぁ」


 こんな贅沢をさせてもらっていいのだろうか? と思うが、せっかくだから堪能させてもらおう。

 当たり前だがシャワーのようなものはないので、桶に湯を入れて収納魔法から取り出したミニタオルで身体を軽く拭く。

 

 そうして中に入ると、少し熱いけど気持ちのいい温度。


「そういえば、溶岩とかに浸かっても大丈夫なのに温泉を熱く感じるのって、不思議だな」


 まあこの身体は神様から与えてもらったものだし、俺にとって都合のいいことなので気にしても仕方がないんだけど。

 適当に歩いて行って、肩まで浸かってみる。


「ふー、気持ちいい……」


 極楽極楽、と呟きながらゆっくりしていると、やはり湯煙の奥から影が動く。


「今度は見間違いじゃないよな」


 もしかしたらこの島の野生動物かも。

 普段だったらご飯にするために捕まえるのだが、こんな風にゆったりしているとき捕まえるのもかわいそうだし放っておこう。


「あ、そうだ」


 せっかくだから、漫画みたいに動物たちと一緒に温泉でも入ろう。

 もし襲われてもこの身体なら大丈夫だし、どうせ誰も見てないからこれくらい遊んでみてもいいだろう。


 そう思って湯煙の中を歩いて行き、どんな動物たちが温泉に浸かっているのかと思ったら――。


「あ、ぱぱだー!」

「え、アラタ……? 嘘! なんで⁉」

「おにいちゃんも来たんだねー!」

 

 そうして、冒頭に戻るのである。




 俺に抱き着こうと、スノウが温泉の中を必死に走ってきた。

 とはいえ、この状況で抱き着かれるのはあまりにもまずいので、慌ててしゃがみ上半身でスノウを抱きしめる。


「わーい! ぱぱとお風呂ー!」

「……」


 楽しそうなスノウは可愛い。

 もちろんこんな子どもに、しかも自分のことをパパと慕ってくれる子に欲情などするはずがない。

 しかしである、俺の視線の先には状況が理解できずに固まってしまったレイナと、何も気にした様子もなく無防備に立つルナの姿があった。


 以前も見たことがあるが、レイナの身体は本当に綺麗だ。

 紅い髪はまとめられて、首から立派に膨らんだ双丘。それと対照的な細い腰に、瑞々しい太ももから足にかけて、そのすべてが芸術のように思える。

 一度全身を見て、彼女の顔を見る。


 涙目になって、身体を震わせて、しかし何が起きているのか理解でいていないのか固まってしまって、俺はそのまま視線を下に。

 駄目だとわかっているのに、上から下まで何度も繰り返してから、ふと視線が横にずれる。


 隣のルナも、普段の幼い言動とは裏腹に、女性ふくらみははっきりとわかる。

 もちろんまだまだ成長途中だろうが、それでも否応なしに彼女が『少女』だということを自覚させられた。


 ――いやこれはやばい。本当に、やばい!


 この温泉が乳白色をしていることが幸いだ。

 せめてこのまま浸かっていれば、というかそもそも目を逸らせよ俺!


 そう自分に言い聞かせるのだが、身体は全然言うことを聞いてくれず、しっかりレイナたちを見てしまって――。


「あ、あ、あ……」

「お姉ちゃん、どうしたの?」

「あっち向いてー!」

「ごめんー!」


 レイナが顔を真っ赤にしながら両腕を抱えて、温泉に浸かる。

 その衝撃で湯が飛び散るが、そんなことを気にしている余裕などなく俺も慌てて視線を逸らす。


「ぱぱ、もっとままの近く行って一緒に入ろー」


 そんな中で、スノウの言葉はあまりにも無慈悲だなと思う俺であった。

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