第三話:運命

 こんなに走ったのは何時ぶりだろう。

 体育祭のリレーに無理矢理出された時以来か?


 それくらい、俺は必死に、がむしゃらに街中を走った。


 何でもっと早く気づかなかったんだ。

 そんな後悔を打ち消したくて。

 まだいてくれるなら、少しでも早く逢いたくて。


 息があがり、汗だくになり、脚が重くなりながらも、俺はできる限り走り続けた。


 もう、どうやって走ったのかも分からない。

 息も絶え絶え。脚も上がらない。

 それ位疲れ切った俺は、大通りを渡れば公園の入り口という所で、信号に阻まれ止むなく脚を止め、前屈みになった。


 無理をし過ぎたのか、心臓が痛い。

 まるで産まれたての子鹿のように、足がぷるぷると震えている。

 地面に顔を向けたまま、必死に呼吸を整えようと息を吸い、く。

 あまりの辛さに、何で走っていたのかすら忘れそうになっていた、その時。


「疾風君!」


 道の向かいから、嬉しそうな、俺が聞きたかった声がした。

 はっと顔を上げた俺は、道の反対側に立つ、街灯に照らされた舞華ちゃんが、ほっとした顔で立っているのに気づく。


「舞、華……ちゃん……」


 ちゃんと反応をしようとしたのに、未だ荒い呼吸がそれをさせてくれなくて。なんともかっこ悪い、疲れた声を出してしまう。


 でも、それでも顔は自然と笑っていた。

 やっと逢えた。待っててくれた。

 それだけで、幸せな気持ちだったから。


 普段なら人通りが多いはずのこの場所は、まるで二人っきりの時間を作ってくれたかのように、車通りも人通りもない。

 横断歩道の信号はまだ青に変わらない。

 俺はそれが変わるのを、飛び出したい心を抑えて今か今かと待っていたんだ。


 だけど。

 俺より先に、彼女に飛び出した奴がいたんだ。


 突然。

 けたたましいクラクションに、俺と彼女ははっとして音の方を見る。

 そこに、減速しないトラックが勢いよく、彼女に向け走り込んでくるのが見えた。


 運転手が、必死に避けろと叫んでいる。

 だけど舞華ちゃんは、突然の事に呆然とし、身を竦ませ、顔を恐怖に染め、動けずにいる。


 刹那。

 脳裏に彼女の死が過った時。


「舞華ちゃん!」


 俺は思わず叫び。咄嗟に詠唱していた。


 避けられないと知った舞華ちゃんが、絶望し目を閉じた瞬間。俺は突き出した腕から光の鞭を繰り出し、素早く彼女に巻きつけると、一気にこちらに引き寄せる。


 間一髪。

 トラックは誰もいない空間を通り過ぎ、側の街灯に激しい音と共に激突し。彼女は勢いよく、俺の空いた片腕の中に収まった。


「間に、あった……」


 腕に感じる彼女の重みに、俺はほっとした。

 轢かれてたら死んでいたかも知れない。抱えられた彼女もそれに気づいたのか。ふるふると身を震わせている。


 舞華ちゃんが無事で、本当に良かった。

 間に合ってよかった。


 そう安堵した瞬間。


「今のって……魔、法?」


 青ざめた顔で、震えた唇より呟かれたその言葉に、俺は絶望した。


 彼女は未だ恐怖が抜けきらぬまま、戸惑った顔でこちらを見ている。


 思い出したのは、掟。

 俺は魔男子。だから、掟に従わないといけない。

 それに従えば、この先どうなるかも分かっている。


 ……仕方ないよな。


 好きな子を助けられないなんて、男じゃない。

 好きな子が死ぬなんて、見たくない。


 そう。

 助けられた。それだけで良かったじゃないか。


 胸の痛みが強くなる。

 情けないけど、目が潤む。

 もう、これが最後。

 だから、決めた。


「舞華ちゃん……」


 俺が少しだけ顔をしかめたことに、不安そうな顔を見せたけれど。


「大好きだよ」


 無理矢理見せた俺の笑顔と伝えたかった言葉に、彼女ははっとする。

 驚きか。嬉しさか。悲しみか。戸惑いか。

 それは分からない。

 だけど、それはどうでもよかった。


 もう、その言葉が意味を成す事なんてないから。


 そして俺は。


『さようなら』


 彼女に、呪いをかけた。


 その呪いにかからなければ。

 彼女が魔女であってくれたら。


 ほんの僅かだけ、そんな期待をしたけれど。

 少しだけ目が虚ろになった後。正気を取り戻した舞華ちゃんの言葉は。


「あの……あなたは、誰?」


 俺が予想し、俺が最も恐れていた、哀しい言葉だった。


「……ただの通りすがりです。車には、気をつけてね」


 彼女を立たせた俺は、もう耐えられなかった。


 事故ったトラックの様子すら確認せず。俺は踵を返して走り出す。

 身体は疲れ切っていて、全然脚も上がらないのに。呼吸も整っておらず、すぐ息切れし苦しくなるのに。それでも俺はもう、そこに居たくなかった。離れたかった。


 だから。

 必死に。

 がむしゃらに。

 泣きながら、走った。


 魔女が魔法を見られた時にかける呪い。

 それは『さよなら』じゃない。


 『さよなら』は、魔女と会えなくなる呪い。だけど、魔女のことを忘れるわけじゃない。

 それじゃ、魔女であることを広められてしまうかも知れない。


 だからこそ。

 『さようなら』じゃなきゃ、だめなんだ。


 この呪いにかかった相手は、魔女のことをすべて忘れる。

 本当に何一つ覚えていないんだ。さっき使った俺の魔法も。最後に伝えた想いも。小さい頃から幼馴染だった事だって。


 そして。

 相手は呪いの中にある限り、一生俺のことを忘れる。

 もう思い出すこともないし、新たに出逢っても、記憶に残る事すらない。


 つまり。

 舞華ちゃんはもう、俺を一生忘れ、思い出さない。


 もう。何もかもどうでも良かった。

 寂しさのほうが辛かった。

 何もかも忘れたかった。

 俺が呪われたい位だった。


 人がいない暗がりの道で、上がらない足がもつれ、勢いよく転んだ。

 二度、三度転がり。仰向けになって止まる。

 身体に傷が。痣ができた。でも、そんなものがなんだ。


 俺はもう。

 心だけが、痛かった。


 ありがとう。舞華ちゃん。

 さようなら。舞華ちゃん。


 隣の家の幼馴染は、もう幼馴染ですらない赤の他人。

 だけど仕方ないんだ。

 俺は、彼女が無事ならそれで……それで……。


 いいわけないだろ!

 好きだったんだ! 一緒にいたかったんだ! せめて幸せになるまで、見届けようと思ったんだ!


 何で俺は魔男子なんだ! 何で俺は彼女を好きになったんだ!

 俺は! 俺なんか! 俺なんて!


「あぁぁぁぁぁぁっ!」


 呪いと掟を心底呪って、俺は両手で涙する顔を隠し、言葉にならない声で叫ぶ。


 だけど。

 呪いはそんなことでは消えやしない。


 最も恐れていた現実。

 最も嫌だった現実。


 好きだった人に振られたわけでもないのに。


 俺はその日。

 バレンタインという恋する者達の運命の日に、失恋したんだ。

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