誰かに言ってもらいたかった言葉

 岸まで泳いで、陸に上がってから絃羽いとはをふと見て、慌てて目を逸らした。

 彼女は制服のまま飛び込んでいたので、その白い制服が透けて下着まで見えてしまっていたからだ。俺は俺で上裸なので、これまた恥ずかしい。


「あっ……」


 彼女自身もそれに気付いた様で、顔を赤らめて恥ずかしそうにもじもじとしていた。


「今はこっち、見ないで……」

「見ないよ。あと、見られたくなかったらもう飛び降りるな」


 そんなやり取りをして、先程俺達が飛び降りた岬まで戻った。

 ジーンズが重くて歩き難く、体中が潮臭い。不快感はかなりある。

 だが、そんな不快感とは別に、一連の出来事はある種の爽快感を持たせてくれた。

 少なくともこの出来事は、先程電車に乗っていた時の陰鬱な気持ちなど一発で吹き飛ばしてしまった。女の子と一緒に海に飛び込むなんて、何かの映画のワンシーンみたいだ。怪我をする可能性もあったけれど、こういう向こう見ずなバカさもまた、懐かしいものだった。

 俺にそんな体験をさせた少女をちらりと見ると、長い銀髪から海水を滴らせ、何やらもじもじしていた。服が透けているのが恥ずかしいらしい。

 溜め息を吐いてから脱ぎ捨てた自らのTシャツを拾って、絃羽の頭に被せるとぐしゃぐしゃと拭いてやった。


「や、やめてってば」


 前が見えなくなった絃羽はあたふたと手を伸ばすが、構わず無理矢理拭いた。


「我慢しろ。拭かないと風邪引く。あと、帰ったらすぐ風呂入れな」


 あらかた拭いて、そのTシャツを着ると、体に海水がぴたりと貼り付いてすごく気持ちが悪かった。

 絃羽の方もぐしゃぐしゃになって湿った髪が顔にくっついていて、鬱陶しそうだ。

 手櫛を通して直してやろうと頬に手を当てるも、さすがに海水を吸い込んだ髪を手櫛で直すのは無理だった。その時、視線を感じて絃羽を見ると、彼女の浅葱あさぎ色の瞳がこちらをじっと見上げていた。


 ──こんなに綺麗な瞳をしていたんだな。


 その瞳を見ていると、吸い込まれそうになってしまった。許されるなら、ずっと見ていたいと思わされるような瞳だ。

 改めて絃羽をしっかりと見たら、彼女は予想通り、いやそれ以上に美少女だった。

 体は折れそうなくらいに華奢で、例え濡れていてもその銀髪は綺麗で、その浅葱色の瞳もまるで絵画の中の天使の様に思える。五年前の小学生とは別人だ。


「あの、あんまり見られると、恥ずかしい……」

「ご、ごめん!」


 彼女がもじもじとして視線を逸らしたので、俺も慌てて頬から手を離した。

 頬に手を当てて瞳をじっと見るって、俺は一体何をするつもりなのだ。


「大丈夫、だけど」


 互いに変な空気になってしまって、少し離れた。

 太平洋から吹き抜ける風が、濡れた髪を少しずつ乾かしてくれているように感じる。

 何とも言えない気まずい空気が海風の上を流れていて、どうしたものかな、と思っていると、横でくすっと笑う声が聞こえた。絃羽の方を見ると、彼女がはにかんで俺を見上げていた。


「なんだよ」

「久しぶりに見たら、悠真さん少し大人っぽくなってたから、可笑しくて」


 その笑顔が予想以上に……何というか、可愛くて、思わずどきっとする。

 胸の一番敏感なところを擽られたかのようにくすぐったくて、少し痛くて。でもその痛みは、決して不快なものではない。


「絃羽はもう少し大人になった方がいいんじゃないか?」


 なんだか癪に障ったので、俺は照れ隠しでそう返した。

 すると絃羽は胸部の透けた下着を両手で隠して、「こ、子供じゃないし。これから育つし」と異議を唱えていた。

 いや、そういう意味で言ったわけではないのだけれど。


「ほら、帰るぞ」


 俺はそんな絃羽に背を向けて桐谷家に向かって歩き出した。


「あ、待って」


 絃羽は小走りで先程飛び降りた海岸の柵のところに立てかけてあった革鞄を手に取り、再び戻ってきた。

 どうやら、海に落とさない様に鞄はちゃんと置いておいた様だ。


「お待たせ」


 そして、俺の横に並ぶ。

 海に落ちない場所に鞄を置いてあるところを見ると、最初から飛び降りるつもりだったのだろうか。それとも、飛び降りるつもりはなかったのか……彼女がどうしてこんな奇行に走ったのか、全く想像がつかなかった。

 ただ、俺はそこまで踏み入っていい人間ではない。帆夏ほのか達の態度に、絃羽の奇行……五年間の空白というのは、俺が思っていた以上に大きかった。


 ──それにしても、一緒に探してやる、か。


 どうしてこんな事を言ったのかわからない。絃羽の諦めた表情が、まるで自分を見ているかのようだったから、何か言葉を掛けてあげたかったのだろうか。


 ──いや、違うかな。


 さっき彼女に言った言葉は、俺が誰かに言ってもらいたかった言葉だったのかもしれない。

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