夕日に照らされた海の中で

 ──嘘だろ?


 目の前で五年ぶりに再会した少女が『空を飛んでみる』という言葉を残して、岬から身投げをした。

 いきなりふわっと空へ消えた絃羽いとはを見送った後、俺は状況が理解できず、固まってしまった。

 人間とは、異常な事態に出くわすと、思考回路が固まってしまうそうだ。まず、事態に頭と体がついていかない。状況を理解しようと、必死に脳内のシナプスが瞬時に働くが、それが追い付かない。

 そして、ドボン、という水の中になにかが落ちる音により、再び俺の意識は現実に引き戻される。そこでようやく事態が飲み込めた。絃羽が飛び降りたのだ。


絃羽いとは!」


 崖から海を覗き込むと、銀色の髪に白い制服の女の子がどんどん海の底に沈んでいくのが見えた。

 慌てて上のTシャツを脱ぎ、ポケットの中に入れてあった財布と携帯電話をシャツの上に置いた。このあたりは結構冷静だったりするので、人間とはなかなか隅に置けない。

 飛び込む前にもう一度崖下を見てみるが、こうして上から見ると想像以上に高い。海には突き出た岩などは見受けられないので、岩に当たる事はなさそうだ。深さもありそうなので、飛び降りる分には問題ない。

 しかし、こんなにも高いところから飛び降りた経験等もちろんなかった。おそらくビル三階から四階建てくらいの高さはある。そう思うと、飛び込む事に一瞬躊躇してしまう。

 だが、視界の中に水に沈み行く銀髪の女の子が入った。


 ──ばっか野郎!


 それを目にするや否や高さへの恐怖は消え去り、彼女のもとに向かって飛び込んでいた。

 海面までの体感時間と、おそらく実際に過ぎ去った時間は大きく差があっただろうと思う。実際に海面にぶちあたるまでの時間は数秒しか要しなかったはずだが、俺の体感としては三〇秒ほどあった。

 一体こんな遠くまで来て何をやってるんだろうなぁ俺、とぼんやり考えられたのも束の間。海面と体の間に物理的な接触が生じ、全身にもバチンと鞭打されたような衝撃が走る。

 次の瞬間、俺は水の中にいて、思ったよりも深くに沈んでいた。

 慌てて海面を目指して這い上がる。水を吸い込んだジーンズがやけに重くて、普段泳ぐ様に上手く体が動かない。上でシャツを脱いできたのは正解だった。


「絃羽、どこだ⁉」


 海面から顔を出して、名前を叫んであたりを見回す。

 今日の波は穏やかだが、太平洋の波は強い。流されてしまう危険は十分にあった。


悠真ゆうまさん……?」


 すると、銀髪の少女が俺のすぐ近くに海面から顔を出してこちらを見ていた。

 白銀の髪がぴったりと彼女の顔にへばり付いていて、せっかくの綺麗な顔が台無しになっている。


「大丈夫か⁉」


 きょとんとした顔をしている彼女のもとまで泳いで、肩に手をかける。


「どうして、悠真さんまで飛び込んだの……?」


 信じられない、とでも言いたげな顔でこちらを見る。

 いきなり飛び込むお前の方が信じられないよ、と思わず怒鳴りたくなった。


「どうしてって……お前が飛び込んだからだろ。お前こそ、何でこんな危ない事をしたんだ」


 肩を掴んで訊くと、絃羽は困った様に笑った。


「……空、飛びたかったから」


 困った様に笑ってはいるものの……頬には海水以外の雫が伝ったように見えた。


「でも、また飛べなかった」


 絃羽は海面に浮かんだまま上を向き、空を自由に飛び回る海鳥に視線を移した。

 それはまるで流れ落ちそうな涙を流さぬ様、我慢している様にも見えた。


「どうして鳥は自由に空を飛べるのに、人間は飛べないのかな」


 それは俺に訊いたわけではなさそうだった。自問でもなかった。ただ、どうにもならない現実を諦めたくて、でも納得もできない……そんな響きがある様に感じた。

 夕日の色に染まる海の中、絃羽の表情はただ物悲しく、そして寂し気だった。

 まるで、この世に希望もなく、生きる事に何の夢もないような表情だ。それはまだ十代半ばの少女がする表情ではなくて、心の奥がキュッと痛くなる。


「……飛べない代わりに、他に出来る事が山程あるからだろ」

「え?」

「飛べないなら、飛べなくても出来る事を探せばいい。わからないなら、俺も一緒に探してやるさ」


 気がつけば、絃羽の手を取ってそう言っていた。

 何か言わないとと咄嗟に思ったのだけれど、自分でも不思議なほど、言葉が自然と出てきた。どうして俺はこんな事を言ったのだろうか。それは自分でもわからない。

 彼女は驚いた様にこちらを見て何かを言おうとするも、口を噤んでしまった。


「だから……もう、こうして飛び降りたりするのはやめろ。心臓が止まるかと思ったよ」

「ごめん」


 彼女は申し訳なさそうに笑って、そう謝った。

 そんなに素直に謝られたら、何だか俺が虐めている様に思えてしまう。


「ほら、さっさとうちに帰るぞ。美紀子みきこさん待ってるから」

「うん……」


 そこで会話は終わったはずなのに、どうしてか絃羽は手を離さなかった。それどころかぎゅっと強く握ってくる始末だ。

 それはまるで、迷子の少女がようやく親を見つけた時の様だった。

 絶対に放したくないという意気込みすら感じるほど、その小さく細い手にぎゅっと力を込めている。それなのに、その手はあまりに儚げで、壊れそうにも感じられて……彼女に触れているはずなのに、いなくなってしまうのではないかと不安になってくる。


「大丈夫、そんなに強く握らなくても、俺はここにいるよ」


 彼女の手を強く握り返してそう言ってやると、絃羽はこくりと頷いた。そして、五年前と同じ様に、遠慮がちに照れた笑みを浮かべる。

 夕日に照らされた海の中で、五年前と変わらなかったものをようやく見つけられた気がした。

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