お兄ちゃんのバカ
「おにーちゃん、朝だぞー」
耳元でそんな声が聞こえたかと思うと、頬を突かれた。
呼ばれ慣れていない呼び方に違和感を覚えて、ハッと目を覚ます。
「あ、起きた」
目を開けると、そこには部活から帰ってきたばかりであろう
昼に会った時と同じく、制服の上にエプロンを掛けている。
「ずっと寝てたの? 夕飯出来たよ!
楽しげにそう言い、パタパタと駆けて階段を降りて行った。
「……どこが朝だ」
窓の外を見ると、夕暮れ時だった。
口元を垂れていた涎を拭うと、大きく伸びをする。
昼寝ってこんなに気持ちいいものだっけか、と思ってしまう程心地良かった。これも、全てから逃れてきたからだろうか。
窓の外の蝉の鳴き声が、ミンミン蝉から蜩へと変わっていた。
冷房を消してがらっと窓を開けてみると、まだ外は暑かったが、嫌な暑さではなかった。都会に比べると涼しく、何より空気が綺麗だった。
そのタイミングでぐぅ、と腹が鳴る。昼食を食べてから寝ていただけだったのだが、今日はやけに腹が減るらしい。きっと、皆との食事が楽しいからだろう。
微かに窓から匂う夕飯の香りに釣られて、足は自然に階下へと向かった。階下に降りて居間に入ると、帆夏と
二人はせっせと台所から居間に料理を運んでいる。
「あれ、皆は?」
「
「……
一瞬躊躇ってその名前を出してみると、帆夏が途端にムスッとした表情をした。
「さあ? もう部屋にいるんじゃない?」
相変わらず突き放すような言い方だった。そこには嫌悪すらも感じ取れた。
「いや、物音しなかったし、部屋には居なかったと思うけど」
「じゃあ、ほっとけば良いよ。どうせ暗くなったら戻ってくると思うし」
「そんな言い方ないだろ、帆夏」
彼女の言い草に思わず苛っとしてしまい、無意識のうちに少し声を低くしてしまった。
一瞬だけ帆夏の表情が曇って『やっちまった』と思ったが、もう遅い。俺は帆夏から美紀子さんへと視線を移した。
「美紀子さん、絃羽はいつも夜まで出歩いてるんですか?」
「いつも夕飯までには帰ってきているけど、まだ帰ってないの? 珍しいわね」
もしかしたら何かあったのかもしれない。そんな焦燥感に襲われてくる。
どうして絃羽の事をこんなにも気にしてしまうのだろうか。自分でも理由がわからなかった。
ただ、それはきっと……いつも申し訳なさそうに帆夏と武史の後ろをついて回っていたのを何となく覚えているからかもしれない。
「俺、探してきます」
「ちょっと、お兄ちゃん。ご飯冷めちゃうよ!」
背を向けた俺に、帆夏が苛立った様子で声をかけた。
「後で温めるよ。それより、絃羽が行きそうな場所に心当たりあるか?」
「……お兄ちゃんの、バカ!」
唐突に帆夏は怒鳴って、走り去るように家から出ていった。
「え……?」
至極当然な回答をしたつもりだったのだが、予想外の行動と罵倒で面食らってしまい、思わず目が点になる。
美紀子さんに視線を向けると、やれやれと言った表情をしている。
「帆夏の方は私に任せて、絃羽を探してあげて。絃羽は多分海岸方面にいるわ。学校からの道沿いだから……行き方はわかる?」
「はい、大丈夫です。ありがとうございます」
俺はそうとだけ言い、家を出た。
早足で先程来た道を下り、海岸へと向かう。
夕方になって涼しくはなっているが、絃羽を心配する気持ちが強いからか、情緒を感じる余裕はなかった。
俺はどうしてこうも絃羽を気にかけてしまうのか。正直自分でもわからない。両親を亡くしてしまった事からなのか、帆夏達があまりに余所余所しく扱うからなのか……でも、何だか放っておけなかった。
ただ、俺のそんな態度の所為で帆夏を怒らせてしまった。どうして彼女が怒っているのかわからない。そんなにも絃羽が嫌いになってしまったのだろうか。それだけの出来事があったのだというのだろうか。
──そういえば、昔にもこんな事あったなぁ。
家の裏にある大きな森で、かくれんぼをした時だ。
絃羽は、普段から気配を殺すのが上手いのか、あれだけ目立つ容姿なのに、彼女だけ見つけられなかった。あまりに見つからなくて、遊びでなく本当に焦りながら探していると、次第に帆夏はどんどん不機嫌になったのだ。そして、最後は決まってあんな風に『お兄ちゃんのバカ』と怒るのだった。
帆夏は普段は良い子なのだが、時として──そしてそれは大体絃羽が絡む時だが──よくわからない発言をしていた。
俺が知らないだけで、昔から絃羽と帆夏の仲は良くなかったのだろうか。
いや、だが……そうとも思えない。俺の記憶の中には、二人が仲良く遊んだり、美紀子さんの手伝いをしていたりした光景が確かにあった。
やはり、この数年の間になにかあったのだろうか?
そうこう考えているうちに、とうとう海岸に着いた。
そして、事は……そう、五年ぶりの再会へと繋がるのだった。
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