二人の朝

悠真ゆうまさーん、朝だよー」

「んあ」


 誰かの声が、意識を夢の淵から戻そうとする。

 それと同時に、ミンミンゼミの鳴き声が耳を貫いた。おそらく朝だということは解ったが、体が動かなかった。体が異常に怠い。


 ──ああ、そっか。昨日意味不明に海に飛び込んだせいで、予想以上に体疲れてたんだな。


 それに加えて、夕飯の後に叔母の美紀子みきこさんと日本酒を飲んだ事も影響していそうだ。紐無しバンジーと日本酒の組み合わせは良くないらしい。

 何となく自分のコンディションを理解してうっすらと目を開くと、小さな銀髪の女の子──ではなくて、白い制服を纏った銀髪の少女がいた。夢の中で見た小さな女の子が、高校生くらいになっている。


「あ、よだれ垂れてる。可愛い」


 意識が朦朧としている俺の口元を、何かでぐしぐしと拭いてくる。体が重く、意識が再度深みに戻ろうとしていた。


「うーん……起きない。どうしよう? あ、そうだ」


 少女の何かを思いついた様な声と、窓をがらっと開ける音が聞こえてきた。

 続いて、彼女の「えいっ」という声と共に、先程から窓際でミンミンと鳴いていた物体が急に『ジジジッ』と暴れ始める音も聞こえた。どこか狭い場所に閉じ込められている虫の鳴き声だ。


「えっと……口の中に入れたら起きるかな?」


 とても不吉な言葉が聞こえてきた瞬間、ハッと意識が現実に戻されて飛び起きた。生命の危機というやつを本能的に感じて、一気に覚醒したのだ。


「え⁉ あっ、悠真さん、おはようっ」


 横を見てみると、絃羽いとはが慌てて右手を背に隠し、笑顔を作っている。


「……右手に何を隠してる?」

「な、なんでもないよ?」

「その割に、やたらとお前の右手が五月蝿いんだが?」

「き、気のせいだと思う」


 どう考えても生命の危機を感じている昆虫が彼女の手の中で暴れまわっている音がする。


「あ、悠真さん、時間!」


 彼女の声につられる様にして時計を見ると、まだ八時過ぎだった。大学生の俺にはちょっときつい時間だ。

 そして、俺が僅かに時計に視線をやった瞬間に、さっきまで手の中でもがいていたと思われるソレの声が窓の外へと飛んでいく音がした。


「今日から悠真さんに学校まで送り迎えしてもらうようにって美紀子さんに言われてるから」


 そうだった。俺は美紀子さんから、絃羽の送り迎えを任されていたのだ。

 昨日みたいに海に飛び込ませないよう、その保護と観察が主な目的だ。それで、俺が起きなかったものだから起こしにきたのだろう。


「ああ、そうだった。ありがとう。それにしても、絃羽」

「な、なに?」


 少し気まずそうに苦笑いをしている絃羽。こちらと視線を合わせようとしない。


「起こすにしても、もっとマシな起こし方をするように。ひどい仕返しをされたくなかったらな」

「な、なんの事……?」


 気まずそうに視線を泳がせる銀髪小娘。田舎の女子高生とはなんと恐ろしい事を考えるのだ。

 溜息を吐いて眠り眼を擦り、俺は大きく伸びをして立ち上がる。すると、絃羽も立ち上がった。

 彼女の制服は昨日着ていたものだった。手洗いで洗って、その後扇風機とエアコンで乾かしたそうだ。今朝アイロンを掛けたのか、ぴしっと綺麗に整っていた。


「悠真さん、朝御飯早く食べて。冷めちゃうから」

「え、ああ」


 絃羽に続いて階段を降りて居間に入ると、テーブルにはベーコンエッグと簡単なサラダ、そしてトーストが並べられてあった。俺と絃羽の分だけだ。


「絃羽が作ったの?」

「うん、いつも朝食は私担当だから。明日は和食にしようかと思ってるんだけど……どっちがいい?」

「絃羽の作りやすい方でいいよ」

「わかった」


 そんなやり取りをしてから昨日と同じ様に定位置に座ると、彼女は俺にお箸を取ってくれた。


「美紀子さんは?」


 箸を受け取りつつ、訊いてみる。家に人の気配がなかったのだ。


「朝は畑。お昼までには一旦戻ってくると思う」


 そうだった。美紀子さんは若いながらも、父母からの畑を引き継ぎ、一人で切り盛りしているのだ。


「そっか。えっと、いただきます」

「いただきます」


 二人で手を併せて、二人きりの朝食を取る。

 絃羽が作ったベーコンエッグをつついていると、彼女は微笑を浮かべてこちらを見ていた。


「なに?」

「ううん、自分の作ってくれたご飯食べてくれる人がいるっていいなって。いつも一人だから」

「お前が一人で食ってるからだろ?」

「それは、そうなんだけど」


 絃羽はいつもの困った笑みを向けて、誤魔化すのだった。この調子だと、きっと学校でも友達はいないのだろう。

 ふと、今朝見た夢の中の絃羽を思い出す。夢の中の小さな絃羽と、何となく今の絃羽が被ってしまったのだ。


「お前さ、なんで普段一人でご飯食べてるの?」


 気になっていた事を思わず訪ねてみた。

 絃羽は一瞬間を置く為なのか、お箸を置いてお茶を二人分注いだ。


「私がいると、迷惑だから」


 彼女は悲嘆した様子もなく、諦めた様な笑みを向けて、コップをこちらへと渡す。


「そんなわけないだろ。美紀子さんだってお前の事大切に思ってるはずだ」

「美紀子さんには本当に感謝してる。でも……皆の美紀子さんを、私が独り占めするのは良くないから」


 彼女はそうぽつりと漏らして、いつもの様に微苦笑を浮かべるのだった。やはり彼女は昔と変わらず、誰かに、いや、皆に遠慮して生きているようだ。


「あ、これ……美紀子さんからの伝言。ほのちゃんにお弁当届けてあげてって」


 絃羽はお弁当箱を取り出して、俺の方へと向けた。

 おそらく、畑に行く前に美紀子さんが作ったのだろう。


帆夏ほのかに?」


 ほのちゃん──これは、絃羽が帆夏を呼ぶ際の呼び方だった。

 あれだけ邪険にされているのに、まだ彼女を愛称で呼ぶところが絃羽らしい。


「うん。いつも昼はここに戻ってきて美紀子さんと一緒にご飯作ってるんだけど、きっと今日は来ないだろうからって」


 そういえば、昨日も部活の昼休みの間にわざわざ戻ってご飯を作っていた事を思い出した。

 今日帆夏が戻って来ないと予想したのは、昨日の事があったからだ。本来なら絃羽が届ければいいのだが、さすがにそれを彼女に求めるのは酷だろう。それに、これは美紀子さんからの『ご機嫌を取ってこい』というメッセージの様にも思えた。


「了解、わかったよ。どっちにしろ学校まで絃羽を送るんだからな」


 俺も帆夏には謝っておかなければならないから、これも良い機会だろう。

 絃羽が食べ終わるのを待って、台所まで食器を持って行って水に漬けて、家を出た。

 朝といえども今日も気温は高く、夏の暑い日差しが俺達を照りつける。朝から蝉は大合唱。太陽も照り付けている。


「暑いね……」

「その制服、暑そうだもんな」


 彼女の制服は、セーラー服のようなデザインで上下白だ。かなり可愛いデザインの制服である。ただ、通気性はあまり良くなさそうだ。


「そうでもないよ? 結構涼しい」


 言いながらも、絃羽は楽しそうにくるりと回って見せた。鞄を後ろに持ち、鼻歌を今も歌っている。

 絃羽によると、この制服目当てで入学して、通学に一時間以上かけている生徒も多いらしい。一方絃羽や帆夏、武史たけしはただ家から近いからここを選んだだけだそうだ。


「ご機嫌だな」

「え、そうかな?」

「ああ」

「うん……そう言われてみれば、そうかも」


 絃羽は自分の気持ちを自覚したのか、微笑んで首を少しだけこちらに傾げてみせた。

 さっきの困ったような笑顔でなく、嬉しそうな笑み。こうして笑っている彼女を見ている限り、入水自殺を計るようには思えなかった。

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