season1 What is the boss of the target woman's father?
ニュートの目の前に映るのは手入れがさほど行き届いていない錆びついた檻だった。部屋とはお世辞でも言えないこの牢屋には鼻に張り付くようなあくどい異臭が充満していた。
先程目を覚ましたニュートだったが、自分が置かれているこの状況に絶句した。
——まぁ仕方ないか
世の中、妥協することもたまには重要だとニュートは知っていた。完璧を求めてしまうと逆に何にも挑戦できなくなってしまうのだ。
——それにしても……
ニュートは自らの身体を未発見生物でも見つけたように隅々まで見た。完璧に治っている。傷一つもない。接合痕も痣も何もない。
後頭部を触っても違和感は何もなかった。当然、痛みも痒みもない。まるで事故そのものがなかったかのようだ。
事象そのものがすっぽりと抜けてしまったようでニュートは頭を抱えた。
よくよく考えてみると大して悩むことでないことにニュートは気付く。簡単な話、これは『能力』だろう。
捕まったという事実と衝突による致命傷の完治という事実がぐちゃぐちゃに混ざり合って混乱していただけだ。
能力と分かった今重要なのはこの能力が誰によるものか、だ。
ニュートはとある記事をネットで見つけていた。その記事は性別によって能力系統が異なるという研究をまとめたものだった。その研究は男性と女性、それぞれ百人に能力調査を行い、記録していくという単純なもの。結果は仮説通りだった。勿論、例外はあるものの男性だと筋肉や戦闘における優位性を確立できる能力が多く、女性はサポートや精神的な面における能力が多数を占めていた。
その研究記事を思い出し、ニュートは垢の溜まった脳みそを必死に回した。
——この能力は恐らく『治癒』だ。治癒能力はサポート。つまり……
ニュートの頭の中に垢が溜まっていく。またもやニュートは日本の映像作品を思い出していた。
「ナース!そう、ナースだ!」
間違いねぇ、とニュートは拳を強く握って薄汚れた天井へ突き上げた。
天使の羽を連想させる純白のミニスカ制服。狂いそうなほど露出された生足は男性患者への真摯な姿勢が見て取れた。制服と対照的に漆黒の髪の毛は誠実さを感じさせ、ナースとしての意識の高さが透けて見えた。
あのナースの下着は確か黒かった、とニュートは思い出す。これぞギャップである。そんな芸術的な面にも気を使い、エロを魅せる姿勢には感服してしまう。流石はジャパニーズヘンタイである。
間違いない。間違いなどあるはずもない、とニュートは確信した。俺を救ったのは心優しいナースであると。そして俺の裸を舐めまわすように見て、恥じらいながら触って治したのだろうと。
というのも能力には必ず発動条件というものがある。例えば手を前に翳す、銃を持つ、目を合わせるなど。治癒能力も同様に発動条件がある。ニュートはそれを触ることと結論づけた。傷があった部分には股間周りもあったことだろう。顔も勿論あっただろう。胸もあっただろう。それを触ったとしたら?童貞で生の女の手など触ったこともないニュートにとってそれはまるで暗闇の洞窟に光る小さくも強く燃える炎そのものだった。
ニュートは再び拳を高く挙げた。
ニュートの身体は散々に破壊された。無能力であるニュートには能力者なら強弱はさておき必ず持つ皮膚硬度というものがない。能力者であればあの程度の事故では傷一つもつくことはないのだ。ボロボロの身体を再生するには多大な能力を要する。ニュートの身体を直した人間はかなり強力な治癒能力を持っているようだった。しかし、ニュートにとってそんなことはどうでもよかった。能力が強くて高飛車な女でも能力が弱く自信がなくても頑張っている女でもその全てが花!全てが柔らかく温かい女の手だ。
ニュートの心は浮いて飛んでいくようだった。
「目覚めたのねぇ。よかったわぁ」
前後が接続していないようなそんな違和感だった。女性の口調なのに男性の低くドスの効いた声。ピンヒールが地面を弾く音。香水のしつこいくらいへばりつくような匂い。ニュートが想像した通りのミニスカナース服。笑ってしまうほどの厚化粧。爽やかに肩まで伸びた髪の毛が悪い意味で異彩を放っている。その姿は映画史に名を刻めるほどの立派なものだった。
「ば、ばけもの」
ニュートの口から自然に出たのは畏怖をふんだんにテイストしたたったその一言だけだった。
「あんた、自分の命を救ってくれた人に感謝はないわけぇ?」
ニュートは口を死んだ魚のように開けたまま動かなかった。瞬きをしたかと思うとさぞ可笑しそうに笑い続けていた。
「ちょっと頭を打っておかしくなっちゃったの?……治せるかしら」
ニュートは涙を流しながら笑っていた。それは目の前の物体に対してではない。自分の人生に少しでも期待してしまった愚かさに対してだ。神はやはり祈り程度では許してくれないらしい。
嗚咽が混じり、笑い声は次第に引き笑いになっていく。何もかもを失ってニュートは嗤うことしか出来なかった。
「ちょっとぉ?大丈夫ぅ?」
「うるせぇ!」
ゲームでも出さない腹の底から出た本音。ニュートの喉からは決して出ないであろうその声は牢屋中に響き渡った。
「ちょっと怖いわ。本当に大丈夫?」
目の前の物体は覗き込むようにニュートを見る。
「うるせぇ!なんでエロいナースじゃねぇんだよ!それにお前が治したってことは俺のちんこはお前に触られたってことじゃねぇかよ!ふざけんな!」
ニュートの身体には机を叩く一連の動作が染みついている。今回も例外なく、自分が座っているコンクリートの長椅子を思い切り叩いた。骨を震わせる鈍い音が聞こえた。
「いっ!」
今のニュートに冷静な判断など出来るはずもなく骨を砕いてから馬鹿なことをしたと気付いた。
「もぉー。何やってるのよ」
「来るなぁ!」
目の前の物体が牢屋の扉を開ける動作を見て、左手を咄嗟に前に出す。これで傷が治ってしまったら本当に自分がこの化け物に治されたと知ってしまう。それだけは避けたい事実だった。
「行かなきゃ、治せないじゃないの」
近づいてくる化け物にニュートはただ後ずさりをするだけで何かが出来るわけもなかった。
ニュートの手に生暖かい感覚が広がる。骨を砕いた痛みは全くなくなり、青紫色の腫れも元からなかったかのように無くなってしまった。
「ああぁあ」
ニュートは現実を知った。今ならば何もかも許せる気がするほどにニュートの頭の中は澄み切って、そのとき思考は停止した。
結局は非現実、妄想。現実世界に持ち込めるわけもないのだ。
「何をしているんだ」
何処かで聞いたことのある低い声がニュートの耳に直撃した。今のニュートには認識出来ていなかったが、檻を挟んでそこにいたのは黒スーツに黒ネクタイをしているマフィアのような顔立ちの男だった。
「ジョン、説明しろ」
「何度言えばわかるのよ。私はエミリーよ」
スーツの男は複雑そうな表情で俯いた。
「……すまなかったな。エミリー」
「別にいいのよ。彼の話でしたっけ?私を見るや否やよく分からないことを口走っておかしくなっちゃってるのよ」
あぁ、とスーツの男は納得したように頷いた。
「やはりクズだな」
ローファのコンクリートを踏む音がニュートに迫ってくる。そしてそのローファはニュートのあっけらかんとした顔面に炸裂した。
「あがっ」
ニュートの口からはそんな滑稽な音が発せられた。
空気を切り裂く音と共にニュートの鼻からは滝のように血液が面白いほど流れ出ていた。ニュートの歯は幾らか脆く砕けて抜け落ち、口の中は血の耐え難い味と匂いが充満していた。唇は無残に千切れて血が滴り落ちていた。
「なん……で……」
ニュートは鼻から流れる止まらない血を少しでも抑えるべく、鼻に手を当てる。恐怖と痛みに歪んだ表情は徐々に疑問の色を帯び始めていた。
「はぁ。とことんクズだな。自覚もないのか」
男は辟易し、溜め息をつく。
「ジャック・トンプソン。それが俺の名前だ。聞き覚えないか?」
男の顔はあまりにも陰惨で、義憤というよりは虫を足で踏むような、そんな目をしていた。
ニュートは自分がした行為がどれほど愚かでどうしようもない事であると知った。まさか警察が親だとは思ってもいなかった。父親が銀行員というのはジャックが自らを偽装するためについた嘘だったのだ。
「これでお前を蹴るのにも納得が言っただろう?もう一発いくぞ」
「待って!」
ジャックは拳を振り上げたまま振り返った。制止したのはエミリーだった。
「私は医者よ。それ以上傷つけるのは許さないわ」
その声は強い決意に包まれていた。彼、いや彼女が持つ医者としての尊厳がそうさせていた。
「こんなクズ、救う必要なんてない。殺さないだけ感謝してほしいくらいだ。メリーが脱いでいたらお前の命はなかったぞ」
ジャックはニュートを睥睨する。その眼からは殺すという発言は嘘ではないと言わんばかりに炯々と光る気高き殺意が放たれていた。
「治すわ」
エミリーはすぐさまニュートの顔を触る。光が出ることもなく、ただ事実としてニュートの怪我はきれいさっぱり無くなった。
ニュートは違和感を覚えていた。
自分が蹴られて、痛がったら治療される。恐らくそれは次もそうだ。何度蹴られて殴られてボロボロになろうとも自分は治してもらえるのではないか?
グロテスク過ぎるこのループにニュートは笑ってしまった。
「何がおかしい?」
「能力っていいもんだな。使ったことないから分かんねぇけど」
ニュートは馬鹿な相手を嘲笑うように舌を出し、中指をたてる。
「クズクズ、クズクズ言いやがって。お前の語彙は随分と簡略化されていて羨ましい限りだよ。キャッチコピーライターにでもなったらどうだ?」
「あぁぁ、最悪だ。誰かこいつを殺してくれ!こんなクズ、今すぐこの場で絞め殺したいがそうすれば俺は捕まりメリーは悲しむだろうな。あぁぁあぁぁ!腹立たしい!何かこいつを死なせる方法は何かないのか!」
「殺す勇気がないことを娘のせいにしてんじゃねぇよ。メリーが可哀想だな、本当に。こんな情けない父親を持ってなぁ!」
「てめぇの糞が溜まりに溜まった汚ぇ口でメリーの名前を出してんじゃねぇよ!メリーが汚れちまうだろうが!」
「あぁ、それは非常に興奮する光景だこと!残念ながら俺は毎日快便だ。てめぇこそその凝り固まった便秘みたいな脳みそを娘さんに浣腸してもらったらどうですかね!?」
二人の罵り合いは止まることを知らず、止めに入ろうとするエミリーの声は全く届いていないようだった。
「あっ!いいこと思いついたよ。てめぇを合法的に殺す方法だ。喜べよ。無職で虫けら以下の人生を送っているてめぇにいい職場を教えてやる」
自分が天才だと言わんばかりに愉快そうに笑っているジャックの耳障りな笑い声にニュートは只々不快感だけを覚えていた。
「てめぇの記念すべき職場はこの街の市警。つまりここで働け!」
「はっ?」
ニュートの口から発せられたのは疑問符を含んだそれだけだった。
「ここはアメリカ一、能力犯罪の多い街だ。ここで五年以上生き残れた警官は中々いない。それも強靭な肉体と強力な能力を持った人間が、だ。お前みたいな無能力者の能無しが生き残れるわけもない。我ながら天才的だな」
「ちょっと、本気?」
「本気だよ。それが一番いい。初出勤は明日だ。豚箱行きじゃなくて良かったと思ったら、大間違いだ。お前が思うこの街と警官が見るこの街はまるで違う。犯罪組織が入り交じり、気付けば人間が死んでいる。少し奥に行けば孤児で溢れてる。これは教育の一環だ。お前が今生きれていることに感謝することになるはずだ。そして死ね!」
何の捻りもない暴言が牢屋の中に響き渡る。
あまりにも唐突過ぎるその提案に困惑しきっていたニュートだったが、今は落ち着きそれどころか何と自分は運がいいんだと歓喜のあまり腕を高く掲げていた。
「分かった。やってやるよ。死んでも生きてやるよ。てめぇが自分のネクタイ噛んで悔しがるのを見下しながら酒を飲む日が楽しみだ」
ニュートはもう一度舌を出した。
***
黒いワイシャツに黒いネクタイ、黒いスラクッスと黒色のローファを履く。髪を適度に切ってから後ろに流す。ワックスを髪にふんだんにつけて整える。洗顔をして化粧水に保湿液。髭を綺麗に剃ったら、最後にハンガーにかかった黒スーツを華麗に着る。エルメスのバッグを持って扉を開ける。
ジャックが用意したホテルの一室だが、中々に設備がなっている。そこらへんに配慮があるのがニュートにとって謎でしかなかった。
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