第8話


 外部も内部も木々にかこまれたガラス張りの温室。季節外れの花が咲く、美しい場所。

 レイモンが退出すると、中にはジークハルトとランスの二人が残った。ジークハルトは植えられた木々の中から、黒髪のレイモンがまっすぐ校舎の方向へ向かったのを見てからランスに体を向けた。



「中に自白剤じはくざいは入れていたな?」

「はい。紅茶に混ぜ、効果を確認した上でお待ちしました」

「報告と違う点は?」

「いえ、報告の調査書にあった通りでした」

「となれば、嘘はついていないことになるな。ああ、念のためにもう一度その自白剤じはくざいを混ぜた紅茶の効果を確認しろ」

「はい」



 白いテーブルの上には赤橙色の紅茶が残ったカップと、空になったカップが一つずつある。もう一度椅子に腰を下ろして、ジークハルトはカップを手に取った。



「薬が効かなかったということもあるな……」

「殿下、あの薬はアスラン随一のもので、効果のほどは殿下もご存知のはずですが」

「ああ、知っている。だが、効かなかったという可能性もゼロではないだろう?」



 自白剤じはくざいが混ぜられたティーポットを掴んで、空のカップに液体を注ぐ。そしてカップを手に取ると、ランスの制止せいしもきかずにジークハルトは液体を口に注いだ。



「私のように、な」



 薬が効かないとわかっていてもなにか言いたげなランスを無視し、ジークハルトは再び紅茶を口に入れた。



 (どっちだろうな)



 嘘をついていないのか。それとも薬が効かないのか。

 後者だと面白い。

 黒い髪の青年を思い出して、ジークハルトはうすく笑った。



「二週間後に呼び出せ」

「二週間後、ですか?」

「ああ。下手に警戒されるわけにもいくまい。それから、様子も探っておけ」

「そのように手配いたします」



「ところで、例の件だが。やはりアレは『リラの熱』だったか?」



 ジークハルトがそう切り出すと、ランスは先ほどよりけわしい顔をして頷いた。



「……はい。試させたところ、同じ症状があらわれました」

「厄介だな……」


 

 ジークハルトも同じように顔をゆがませた。眉間にしわを寄せ、カップを置いて腕を組む。



「早急に出所でどころを割らねばな。見つかったのはファベット男爵邸だんしゃくたくだけか?」

「はい、今のところは。現在、他の貴族と富裕層ふゆうそうも対象にして調査をしています」

「そうか。次に開催される夜会で、一番近いのはどこだ?」

「フォールズ男爵だんしゃく仮面舞踏会かめんぶとうかいが一番近いかと。来週にあります」

「フィナンド子爵ししゃくとして、行くことにしよう。なにか掴めるかもしれない」



 二人の会話が終わるころには、カップに注がれたものだけでなく、ティーポットにある紅茶もすでに十分っていた。








解析幾何学かいせききかがくは平面や空間に座標ざひょうを定めて数と図形との関係を与え、ーー」



 (平和だ……)



 幾何学きかがくの講義を聞き流しながら、レイモンは窓側の隅の席で日常を噛み締めていた。



「曲線や立体のいろいろな性質を、解析的に、簡潔な代数的記号を用い、ーー」



 (体調も抜群にいい。平和だ……)



 レイモンはシェハルの諫言かんげんを受け、授業より体を休ませることを優先するようにした。一日の講義のうち、一つか二つを睡眠すいみんに回す。連続して同じ講義を欠席することはしない。このルールで過ごしたところ、一週間で体調は驚くほどよくなった。

 最近は慢性的まんせいてきにあった頭痛も、寝てもとれなかった疲労感ひろうかんもなくなった。そのため、一週間前のように誰かの侵入しんにゅうを許すこともなければ、前より講義にも集中できるようになった。



 (これで魔族ホイホイの王子が、今の三分の一でもつれてこなけりゃいいんだがな……)




 脳裏のうりに輝くような琥珀色の瞳を持つ王子が浮かんだ。レイモンはあの茶会の後にした魔王との会話を思い出していた。



『レイモン! 報告書読んだよ。逃しちゃったみたいだけど、大丈夫? 怪我しなかった? 本当はすぐ通信したかったんだけど、昨日は兄上がこっちにいらしてたから……』


 

 寮の部屋にそなえつけられた鏡が紫色の光を放つと、盛大に眉を下げた魔王が映っていた。魔界からの鏡を通した通信だ。レイモンは鏡の前に移動し、鏡越しで魔王に向けて頭を下げた。



『……魔王さま……ご機嫌うるわしく、』

『あ、いま僕しかいないからいつも通りでいいよ』

『わかった』



 かしこまらなくて大丈夫だと言われ、顔を上げて頷いた。だが、すぐにまた頭を下げた。



『……悪い、一人逃した』

『それは全然いいよ!顔あげて! あ、待って、ごめん。全然いいわけじゃないけど、でもともかくそれはいいんだ! レイモンはすごくよくやってくれてるし。それより怪我は大丈夫なのかい? レイモンが逃しちゃうなんて、かなりの上位魔族だよね……』

『い、いや、……』



 睡眠不足からくる体調不良。そして私情しじょうでイラついていて、すきをつくってしまった。そのせいで逃すことになった。

 純粋に心配してくれ、その上レイモンの強さを信頼している魔王に少々居たたまれなくなったものの、レイモンは正直に話すことにした。



『悪い……』

『そっか、そういう事情だったんだね。……でも、やっぱりレイモンはすごいよ。休めなくて辛かったよね? ごめんね。本当はもっと護衛を送れればいいんだけど……ごめんね。僕がふがいないばっかりに』

 自嘲じちょうするように、魔王アズエルは顔をゆがめた。

 アズエルの事情も知っている。魔界の情勢じょうせいもわかっている。慰めることもできる。だけど彼は慰められることを求めてはいない。だから、レイモンは話を変えることにした。



『……あそこまで魔族ホイホイは初めてみたけど、留学先はどうしてたんだ? あれだと襲うやつも当然いただろ』


 レイモンの意図に気づいたようで、アズエルは少しだけ困ったように微笑んだ。だが、すぐ質問に答えた。


『もちろんいたよ。でもあの国と僕らは条約を結んでいないからね。だから魔剣まけんと魔術で追い払っていたみたいだよ。条約はあくまでアスランの中でのみ、適用されるからね』

『魔術も使えるのか』

『うん、剣の腕もいいし、そのうえ魔術もできる。もっと極めれば魔術騎士にもなれるかもしれないね』



 にこにこしながらいうアズエルの話に耳を傾けがら、ふと思った。

 魔術が使えるなら、寮に魔術で侵入を防ぐ結界をはればいいのに。レイモンの手を掴んだときからも部屋に近づく者を、当然警戒けいかいしているようだった。ならば魔術で結界をつくればいいのに。



『魔術が使えるなら、ここでも使えるだろ。なんだって使わねぇんだ』



 怪訝けげんな顔をして、レイモンが独り言のように呟いた。それにアズエルは紫色の瞳を細め、優しげに微笑んだ。



『彼はね、留学先からこっちに戻ってくるとすぐに魔剣も魔術も手放したんだよ。第一王子くんの方はさ、実は部屋には魔術の結界がはってあるし、護衛の何人かには魔剣も渡している。もちろん、魔術師の側近もいるしね』 


『でも、第二王子はそうしていないんだ。だから僕もなんだか応援したくなっちゃったんだよね。もともと条約がある以上、違反者は捕まえるけど。それでも僕の大切な友人で側近でもある君を彼のもとに送ったのは、僕らに対して真摯しんしだったからかな』


『そうじゃなきゃ、君を送ったりしないよ。だってレイモンは、僕のとっておきの一人だからね…………まあ、とっても強いっていうこともあるけどね』

『……真摯しんしってより、王族としてはバカだろ』


 そう言いつつも、レイモンはもう少しだけなら護衛する時間を増やしてもいいかなと思った。



 

「では、今日の講義はここまでとする」


 (ん? 終わっちまったな……)



 レイモンが一週間前の会話を思い出しているうちに、時間が経っていたらしい。

 だが今日の内容は基礎部分にあたるため、そこまで重要ではない。聞いてなかったが特に問題はないだろう。



 (ま、終わったみたいだし、庭園に行くか……)



 いつものように教室を出て、近道である校舎と校舎の間を歩く。奥へ進み、第一庭園に近づくにつれて生徒が少なくなった。

 一週間前に訪れた第二庭園にはかなりの生徒がいたが、第一庭園には見た限りレイモン以外はいないようだった。

 いつもならベンチや木の下ですぐに寝てしまうところだが、今日はすこぶる体調がいい。せっかくだからこっちの庭園を散策することにしよう。

 そう決めてレイモンは庭園内を歩き出した。


 第二庭園は花が多く、ベンチや噴水などがあって人が多かった。道が作られていて、木々が少なかった。第一庭園は木々が多いく、まるで小さな森のようだ。



 (そういえば、ずっと奥まで行けば王子の寮の方に行くな……)



 低い木の間を通ろうとしたとき、頭部に痛みが走った。



「いてっ……」



 なんだ、と思って振り向こうとするも、頭が動かない。どうやら髪が枝に引っかかってしまったようだ。



「枝か……」



 髪を引っぱってみるものの、枝から髪が解ける様子はない。

 地味に痛い。

 早くなんとかしたいが、枝を切るのは気がひける。



 (髪を引きちぎるしかないか……)



 枝を抑えて頭を強く引く。

 そうしていると、後ろから足音とともに甘やかな香りがただよってきた。

 振り返らずともわかる。王子ジークハルトだ。



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