最終話
「優生政策をしなかった場合のデメリットは何だ?」
ディスプレイが10月28日20時12分を映し出す。
固く圧縮された静けさが漂う。
部屋の奥には広いガラス窓があり、その向こうに広大な領域が広がっている。
量子コンピュータとそれに合わせて作られたホライゾン・ストレージの機材が無数に格納されているという。
満実が本当に話したいのはここなのだろう。
最後のお題にしてきたことからそれは明らかだ。
奴は長年作り上げてきたこの城を崩せるものなら崩してみろと言っているのだ。
デメリット。
そんなものは思い付かないが、考えた上で回答しなければならない。
優秀な人間を残し、そうでない者は淘汰していく。
そうしなかった場合、バカばかりになってしまうとでも言いたいのだろうか。
ここは今まで以上に丁寧にいくべきだ。
「優生思想は、僕のイメージでは優秀な人だけ残れば良い、そんなエリート思想ですが……何かはっきりした、これだっていうものはあるんですか?」
自分でここまで考えた、しかしその先が分かりませんとアピールしつつ訊ねる。
そこは及第点だったようで、満実は満足そうに頷く。
「君の認識はある点においては正しい。しかしこの問題はもっと歪な形をしている。優秀な人間だけ残れば良い、それだけでなく、劣った人間は淘汰していく、ということだ」
「…………それは、同じことでは?」
「そう、だから君の認識はある点においては正しい。何の思惑も無く優生思想を手の平に載せれば、それが正しい認識だ。だが両者は、別物なんだ」
「別物」
いよいよ分からなくなってきた。
必死に奴の発言の意味を探る。
優秀な人間だけが子を作れば劣った者は自然といなくなる論理になるのでは?
これは表と裏の違いだけで、同じことなんじゃないのか?
両者は別物……その意味が分からない。
トドだかアザラシだかは一頭の強い雄=優秀な者だけがハーレムを作って子を残すようになっている。まさに優生思想だ。
ん?
雄は選別されるけど雌は選別されないのか。
何だか世知辛いな。
あることに気付く。
何の思惑も無ければ?
思惑。
思惑か……
思惑っていうと、あれか。
大人の事情。
「自然界においては、正しいと?」
「賢明だ」
満実が口元を綻ばせる。
何とか最初の関門は突破した感じ。
緊張が解けてくる。
僕だってそれなりに自信はある。
公安に入るにはそれだけ優秀でなければならない。
普通の警察官とは違うのだ。
「人間の場合、優生学に基づいて何かをする者もいれば、基づかずにそれを利用する者もいる。ナチスも利用した」
気が向いたのか、満実がヒントを出してきた。
ナチスと言われて分からないはずはない。
虐殺だ。
標的にされたのは……ユダヤ人。この時、優生思想? 優生学? が利用されたのか。
高校生の時何かで読んだ気がするんだけど……
ああ、たぶんあれだ。
「人種差別……それに利用されたんですか」
「そうだ。個々人の優れているかいないかでなく、どの人種が優れていてどの人種は劣っているといった定義に都合よく改変し、利用した。ユダヤ人を劣っているなどバカバカしいことは誰が見ても明らかだろう。アインシュタインはユダヤ人だ」
これは凄い名前が出てきたものだ。
僕は目を瞑り集中した。
答えまでの道はまだぼんやりしている。
もう少し必要だ。
人種差別。
個々人でなく、人種で優劣を決める。
定義を都合よく改変。
何故、利用されたのだろう。
虐殺のため。まともな精神では虐殺などできない、だからあいつらには何をしても良いんだという空気を醸成。そのために……?
そういえば、優生思想は差別そのものじゃないか?
優秀なやつだけ残れば良い、劣っている者からは権利を奪う。
人権侵害。
人権。
人権……
見えてきた気がする。
人権派弁護士、人権運動、人権啓発……そんな言葉を人生の中で何度も聞いてきた。
その圧力があるから……
「人種差別に利用されるならそこには大きな反発を生むと思うのです。特に今の世の中、人権が重要視されています。優生思想は人権を無視しなければ成立しないものです、だから失敗したのではないですかね」
「人権の擁護は倫理観を原動力にしているじゃないか。君に充分な倫理観はあるかね?」
思ってもみないところから質問が飛んできて、僕はウッとなってしまった。
「無い、ですね……」
「そうだな。私も無い。多くの人は、倫理観と聞くと目を逸らすか、反感を覚えるか、だ。場合によっては何も感じないか。ボランティアに参加する人の少なさからしてもこれは裏付けられる。では人権擁護が優生思想を押さえ込む力として充分か。そこには若干の疑問が残る。むしろもっと簡単な理由じゃないか? 基準が曖昧なんだ、優生思想は。何をもって優秀とするのか、何をもって劣等とするのか。それは時と場合によって変わる」
「あ、ああ、なるほど」
基準が曖昧だと、最初から感じてはいた。
漠然と、優れた人間だけ残してそうでない者は淘汰していくってイメージはあっても、改めてそれは何かって考えると優生思想とはそもそも何だろうってなる。
「基準が曖昧だから利用されやすい。そして実際利用された。虐殺に利用されたことから、これは良くないものだと認識が広がった。元々失敗する運命にあったんだ」
満実の話を聞いていると、失敗して当然のことのように思われた。
僕自身優生思想を漠然と否定すべきものと思っていたが、虐殺と結び付いたから悪として世界中で廃れていったのか。
それはもう、復活することは無いだろう。
しかし、目の前の男は復活させようとしている。
BMIで強制的に。
緊張感が蘇る。
そう、僕はただお話ししているのではない。
彼の野望を阻止するために話しているのを忘れてはならない。
それで、デメリットか。
優生政策をしなかった場合の。
無いと答えた時点でこちらの負けだ。
一定の納得感ある答えを見出さねばならない。
「基準が曖昧なんですよね? 何か基準を明確にした場合でのデメリットですか?」
話している内に僕の集中力は鋭くなっていた。
そう、ここは曖昧さをなくすのが第一関門だったんだ。
そうしなければ答えに幾らでも難癖を付けられる。
目の前の男は期待通りだ、という顔をした。
「基準か、そうだな。難病などはどうだ? 実は現代においても優生思想は続いている。出生前診断は聞いたことがあるだろう? 胎児に異常があるかを検査し、異常が見付かれば中絶する。その世界では『検査をして中絶することは悪いことなのか?』といった声が大きい。実際に産んだとしても育てる自信が無い、家庭環境として背負えない、生まれてきた方が可愛そう……色々ある。綺麗事だけでは済まないのだ」
これはまた強烈なカウンターパンチが飛んできた。
これは……用意していたな、絶対。
肌が粟立つ。
刀を鼻先に突き付けられ、お主も抜けと言われた状態。
これが、これこそが、本気か。
空気が熱を帯びる。
僕は静かに闘志を燃やす。
受けて立とうじゃないか。
ここからは本気の殴り合いだ。
「受け取り方は人それぞれあると思いますが……子供を作った責任というのもあります」
「愛し合うことは自由だろう?」
「避妊の方法は色々ありますので」
「そこまで完璧に考えるものかね? 君はそんなに計画的にしたかい?」
満実の心の自由論に対し僕は一般論をぶつけてみたが、今度は僕の懐に矛先が向けられてしまった。
攻め方が上手い。
「僕は、気を付けましたよ、ちゃんと」
そんなの嘘だ。
でもここで退けば一気に討ち取られてしまう。
「ふーむそうか。では子供を作る以上、それだけの責任は取るべきだと?」
「命を作るってことですからね」
「ならば君は出生前診断はしたか?」
この流れはまずい。
痛いところを連打で突いてくる。
ここも嘘で切り抜けるか?
でも病院に行った時点で僕の家のデータは作成されている。
データが存在し、満実の権力ならそのデータを閲覧するのも不可能じゃない。
だが一人一人のデータなんぞつぶさに見ているとも思えない。
確率的には乗り切れる。
だが……
僕は満実と視線を交錯させた。
呼吸が止まるような一瞬の後、
「……利用しました」
やはり無理だった。
リスクが低くても賭けはしたくない。
だが困った。
土俵際まで追い詰められた。
しかも次に来る攻撃は当然、トドメの一撃である。
「ならばそこで異常が見付かれば中絶を選択したんじゃないのかね?」
正確に心臓を貫きに来た一撃。
僕は普通の、どこにでもいるクズだ。
しかし認めれば満実の野望を阻止する理由も無くなってしまう。
心は覗くことができない路線で嘘をつくか?
だめだ、これまでの会話で僕に倫理観が無いことは明かしている。
出生前診断を利用していてなおかつ綺麗事を並べたら即バレ必至。
屁理屈路線でこれは優生思想じゃないと持っていくか、いやそれも無理がある。
これまでの会話はここで追い詰めるための罠だったのか……!
くそっ汚いやり方だ。
もはや生半可な防御も反撃も意味を成さない。
鉄壁の防御か渾身のカウンターしかない。
集中力は極限まで高まっている。
頭が焼き切れそう。
考えろ考えろ……!
考えろ!
答えずにあなたはどうなんだ、のカウンターは無駄。
余計に優生思想を肯定する結果が目に見えている。
話を変えるのはアリ。
しかし答えた上でその答えが重要でないことを示すロジックを入れなければ強引過ぎる。
が、
…………ん?
何か、ちょっと……
掴めそうな……
……キタ!
光が見えてきた。
吐き気も出現する中瞬時にロジックを組み立てていく。
この路線で、全力のカウンターだ!
「…………そうかもしれません。ですが、それは可能性の話です。いざ医師に重大な問題があると告げられたとしましょう。そうしたら僕は、妻と話し合います。妻が泣きながら、『私達は命の選別をすべきでない』と訴えるかもしれません。そうされたら、僕も心変わりする可能性だって充分に、あるのです。人間はそんなに単純じゃない」
この先は話を組み立てている余裕も無い。
全身の毛穴からどっと汗が噴き出てくる感覚。
ここで途切れさせてはいけない。
間髪入れず話を変えていく。
「それよりも問題なのは、こういった事象に対し議論が尽くされていないことですよ! 僕達は優生思想のこともよく分かっていないし、出生前診断と優生思想が関係していることもよく知らない。議論もされないまま進めるなんて民主主義ですか?」
僕の渾身のカウンターが確かな質量を持った。
最後の問いかけが何を意味するか目の前の男が分からないはずがない。
政治家である、彼に!
「ほう……」
満実が心底楽しそうに笑みを見せる。
そして肘をついて顎を弄った。
声が聴こえてくるようだ。
『まさかこんな返しをしてくるとは』って。
はは、やってやったぞ。
窮地を脱しただけでなく攻守まで交替だ!
少し顎を弄っても良い返しが浮かばなかったらしく、
「確かにその議論は喚起してこなかったな」
これでこちらに主導権が渡ってきた。
思考がクリアになっていく。
もうこのチャンスを逃すつもりは無い。
必ず仕留める!
「優生政策をしなかった場合のデメリットですよね? 確かに知らず知らずのうちに利用している制度がなくなって何かしらの問題は発生するかもしれません。重大な問題を抱えて生まれてくる子も、その親も境遇を受け入れることができない人も大勢いると思います。しかし、だからといって議論も無いまま強制的に進めるのはやはり拙速だったのではないでしょうか? それに、これまでのお話で言ったじゃないですか、基準が曖昧だから利用されてしまったと。今は基準どころか全てが曖昧です。曖昧だったらまた利用されてしまうでしょう」
遠くの的を射抜くつもりで、丁寧にポイントを押さえつつ相手を打ち砕く。
クリアになった思考からは湧き水のように言葉が流れ出てくる。
お題に回答した上で再考も促す完璧な展開。
もうどんな反撃が来てもそれごと粉砕できる。
文句があるならとことんまでやってやる、そんな思いでいつになく真剣な目を満実に向けた。
満実はしばらく考え込んだ。
色んな反撃をシミュレーションしているのだろう。
だがそれがことごとく失敗に終わっているのが分かる。
王手をかけられたまま逃げるしかなく、逃げたとて数手先には詰み。
時間が経過していく。
沈黙が長くなるほど僕は余裕ができ満実は苦しくなる。
もう沈黙が長すぎると感じ始めた、その時。
満実が深く頷いた。
さあまだ抵抗するのか……おとなしく白旗を上げるのか……
「この国でも昔、過ちを犯した……ハンセン病患者の隔離や差別を行った。曖昧なまま優生政策を進めれば、また何者かに利用されてしまうだろう。歴史は繰り返す、か……」
出てきたのは反撃ではなかった。
そこに覇気は無く、どこで間違ってしまったのかを探す哀れな呟きでしかなかった。
安心した。
もう不毛な殴り合いをしなくて済む。
ここまで来たら僕にできることはもう、優しくトドメを刺すことくらいだ。
「やり直しましょう。議論を重ねて、それでもどうしてもやるべきだとなったら……その時また進めれば良いじゃないですか」
テーブルに目を落とした満実に手を差し伸べるように言葉をかける。
満実はそれに応じた。
「止め方を教えよう」
彼の表情は晴れやかで、潔かった。
良かった……僕は緊張の糸が切れ脱力する。
背もたれに沈み込んでしまいそう。
ゲームクリア。
ただお喋りしただけなのに、本当に疲れた。
昔やったRPGの、ラスボスをやっと倒したみたいな、重労働だ。
満実に連れられ、壁側を向いているモニタの所に移動する。
部屋側に向いていないモニタはすなわち、みんなに見せたいものではないという意味だ。
満実が付近の引き出しから説明書を取り出す。
説明書の後ろの方が見えるように捲り、僕に渡してきた。
緊急停止をする場合、と書いてある。
僕がそれを受け取ると、満実は手を離す前に妙なことを訊いてきた。
「過去に行くことはできると思うかね?」
「ドラえもんに頼むしかないですね」
「…………残念だよ」
満実は疲れ切った表情で説明書から手を離した。
その背には哀愁が漂う。
今更後悔しても遅い。
それにもうゲームは終わっている。
これ以上相手にするつもりは無い。
モニタを触ると各種情報が表示された。
稼働機数、稼働状態、セキュリティ、容量などが並んでいる。
僕にはそれらは分からないし必要無い情報なのでスルー。
モニタ右下に設定ボタンが表示されている。
用があるのはこれだ。
説明書を見ながら進めていく。
設定、その他、作業コードを入力……4桁を入力、と……
で、おお……?
緊急停止って題名が出た。
画面上には注意事項が羅列されている。突然止めるとバックアップが取れないとか、書面で承認を得て操作することとか。
これらは興味無い。
『次へ』ボタンを押す。
操作種類は日時指定じゃなく、即時実行、と。
最終確認画面が出てきた。
パスワードの入力を求められる。
手書きのパスワードを見ながら入力。
感慨深い気持ちになる。
現役の大臣を逮捕なんて正気の沙汰じゃない。
皆が知ったらさぞ驚くだろう。
まさか日本人全員が操られようとしていたなんて。
でも、そんなものなのかもしれない。
こんな大事件も、実際はドラマのように華々しいものじゃない。
多数のパトカーが取り囲んだり銃撃戦があったり、そんなこともない。
こういう風に人知れず解決されるものなんだ。
パスワードの入力完了、そしてOKボタンを押す。
この事件はどのように報道されるだろう。
いや、その前に逮捕においても考えないといけない。
まずは大臣の辞任をしてもらい、逮捕はその後になる。
これは上層部と政府の話し合いで段取りが組まれるだろう。
最悪、議員の任期満了まで待つことになるかもしれないが、まあここが止められればそれ以降はどうでも良い。
野望と挫折、か。
人生全てを賭けてまでやりたかったことが、ここまで大それた事件を起こしてまでやりたかったことが……そこまでのものなのかね、優生思想は。
取り調べではどんな供述をするのだろうか。
何だか哀れに思えてくる。
画面には緊急停止を開始しますと文言が出た。
その下に『承認コードを入力して下さい』と出ている。
僕は説明書に目を移した。
しかし承認コードの記述は見当たらない。
さきほどの手書きのパスワードで全て終わっている。
説明書の背表紙も見てみるがそれらしい書き込みは無い。
……あれ?
「あの、承認コードは?」
僕の問いかけに満実は静かな微笑みで返した。
「過去に行くことはできると思うかね?」
「えっ……?」
僕の中に強烈な違和感が生まれる。
違和感は急激に膨張し、背中を駆け上がり凍り付かせていく。
何か……
何かおかしい。
いったい彼は何を言っているんだ?
何が起こっているんだ?
画面の方では制限時間が表示された。
5:00。
4:59。
4:58……
だんだん減っていく。
「いや、ちょ、満実さん、承認コードを、早く……!」
催促しても満実は黙ったまま。
僕はパニックになってしまう。
「だってもうゲームはクリアしたでしょ?! 教えてくれないのは反則ですよ!」
「私はクリアだとは言っていない。止め方を教えるとは言ったが。君はルールを破った」
僕は愕然とした。
そして違和感の正体が分かった。
ついさっきのことだ。
説明書を手渡された、あの時……!
『過去に行くことはできると思うかね?』
『ドラえもんに頼むしかないですね』
『…………残念だよ』
ゲームのルールその1、いいかげんな回答をしてはならない。
僕はもうゲームが終わっているからと、いいかげんな回答をしていた。
ゲームは、続いていたというのか……!
「映画でよくあるだろう。タイムトラベル。未来へ行くことは簡単なんだ。光速の90%まで速度が出せれば、その乗り物に4年半乗っているだけで地球では10年経過していることになる。特殊相対性理論だ」
満実が楽しそうに喋るのが怖かった。
画面上で減っていく時間、僕の焦燥とかけ離れている。
「過去に行けるかどうかも科学者が真剣に考えてくれている。有名なのはワームホールを2つ使ったものだ。片方を亜光速で運動させれば2つのワームホールの間に時間差が生まれ、過去と繋がる、という理論だ。ただし、この手のタイムマシンはできた瞬間に爆発を起こし破壊されるんじゃないかと見られているし、量子重力の法則を解明するまで分からないそうだ」
ただただ奴の言葉が打ち付けてくる。
僕にはもう考える力は残っていない。
「私は子供の頃からタイムトラベルにいたく興味を惹かれてね。色々本を読んだよ。過去や未来に行けたらさぞ面白いだろうと。しかし色々分かってくると、未来に行くことはできそうだが過去に行くのは非常に難しいというではないか。落胆したよ。そもそもワームホールの理論もワームホールを使えるようにすることがどうしようもなく難しい。少なくとも私が生きている間には不可能だ。しかもそれを亜光速で移動させる? もっと不可能だ。更にはできた瞬間に壊れる? 何だそれは!」
満実が初めて感情を露わにする。
妻子にすら悟られない、奥底にしまっていた姿。
「だいたい我々の使っている時間の概念で過去へ行けるのか? 映画みたいに何年何月何日の何時何分何秒と入力して。無理だ! 地球の1日は24時間だが金星の1日は243倍もかかる。今の地球の1日は24時間だが45億年前は1日が5時間だったそうだ。見方によっていくらでも変わる概念で自然界の時間を捉えられるわけがない!」
次々溢れ出てくる言葉には膨大な熱が籠っていた。
本当に好きなんだと分かる。
「宇宙にとっての時間を精確に捉えられない限り、過去のいつかの時点に行くことは無理だ。また、時間は1本の流れしかないのか、幾つもの枝分かれしたものなのかも分からなければならない。そうしなければ過去が変更可能かどうかも分からない。そこで重大なことに私は気が付いたんだ。過去に行くためには、過去が保存されていなければならない。この広大な宇宙の全てを、どこかに、だ。そんな途方もない情報の保存場所がどこにあるっていうんだ? 私は絶望したよ。無理だ、過去には行けない……ってね」
こんな状況なのに、オリヴァーは黙々とメモを取っている。
おい、何やってるんだよオリヴァー、何とかしてくれよ……こんな時までメモかよ……
「ああ、彼は記録者だ。この実験を記録したいというのが大国の意向でね。代わりにお膳立てをしてもらったが」
確かにおかしいとは思っていた。
オリヴァーが電話一本しただけで官邸まで動いたのだ。
もう残りが30秒しかない。
僕はヤケクソになり、モニタに手を伸ばした。
「ああどうぞ、てきとうに打っても当たれば停止できる。まあ何度も見ているが、だいたい同じようなものを入力しているがね。本人にとってはランダムでもクセが出るのかもしれない」
「…………えっ……?」
僕は瞬きも忘れてしまった。
満実の言葉は僕の理解の範疇を遥かに超えていた。
何度も、見ている……?
何度、も……?
寒気、吐き気、脂汗。
押し潰すような恐怖、畏怖、恐慌。
僕は決定的な思い違いをしていた。
それを悟った。
悟ってしまった。
「さっきの続きをしよう。私は絶望し、一度は諦めた。しかしすぐにまた諦めきれなくて元の道に戻った。受験勉強をしながら必死に考えた。そしてある考えに至ったのだ。過去には行けない。何故ならば過去に行くためにはその過去がどこかに保存されていなければならないから。だから、」
この男が人生全てを賭けたもの。
それは……
「だから私は保存した。何年何月何日何時何分何秒何ミリ秒という、その瞬間を。全ての人の、全てのデータを。過去に行けないなら、過去をこちらに来させれば良い」
了
【あとがき】
作者の滝神です。ここまでお読みいただきありがとうございます。
何年か空いてしまいましたが、新作を書きました。
この作品はこの長さが適切だったので短編程度の長さで終わりました。
タイムトラベルは古来より扱われてきたテーマではあります。
でも、納得感あるものに出会えたことが無い。
とある作品では、この方法で過去に行けるとは思えない、と感じたり。
別の作品では、設定が破綻していたり矛盾していたり。
なので、次のことを意識して書きました。
もし現状、生きている間にできる範囲のことは何だろうか?
書き終えてみると、SFであり、ホラーじみた終わり方であり、ミステリーみたいでもある不定形な造形になりました。
また会いましょう。
ではでは。
BMI/C 滝神淡 @takigami
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます