第3話

「君にとって離婚は発酵か腐敗か、どちらかね?」

 ディスプレイが10月28日19時38分を映している。

 僕は意識を取り戻したものの、呼吸が不規則になっていた。

 運動したわけでもないのにずいぶん疲れている。

 汗もかいている。

 このゲームの恐ろしさが本体の満実と対峙して初めて分かった。

 離婚なんてあり得ない。

 僕の夫婦は円満だ。

 妻と調塑があの場にいたのは偶然だ。

 離婚が発酵?

 腐敗?

 ふざけるな!

 表情に出てしまっているのか、満実が訝し気な表情をした。

「家庭に問題でも抱えているのかね?」

「問題などあろうはずがありません」

「…………まあいい。このお題の報酬は『博士たちを殺害したと認めるかどうか』だ」

 僕の頭はまだぐつぐつ煮えている。

 何をわざとらしく。あんたが家庭に問題があるかのように言ったんじゃないか。

 そう、疑いを持つからいけないんだ。

 僕の妻に限ってそんなことがあるはずが無い。

 無い。

 離婚など無い。

 そう言ってしまいたい。

 そこをすんでのところで義務感が抑えている。

 僕はこいつを何としても止めなければならない。

 このゲームには絶対のルールがある。

 思考しなければならない。

 思考力が著しく落ちている。

 何とかしないといけない。

 思考に集中するにはどうしたらいい?

 とりあえず深呼吸。

 一回、二回、三回。

 しかしこれで家庭が壊れたらどうしてくれるんだ。

 ああくそ、またすぐ雑念。

 集中しろってのが無理だ。

 もうとにかく無理矢理でも考えよう。

 離婚が腐敗ね、まあ夫婦関係が腐敗してりゃ離婚するだろう。

 まあ僕じゃないどこかの夫婦と仮定して、だ。

 顔を見れば喧嘩ばかりみたいなのはもう腐ってきている。

 学生時代を振り返ってみれば、別れる時なんてのはだいたい腐っていた。

 致命的なズレ、飽き、他に目がいき始めた、等々。

 鮮度か。

 恋愛は鮮度が命。

 賞味期限が来たら終わりなんだ。

 そこで、待てよ、と気付く。

 結婚は違う。

 電撃婚の場合は知らないが、結婚は賞味期限が来てからだ。

 何ならもう終わりにしてもいいんだけど、という境地で何となく、自分の適齢期みたいなものを感じて区切りを付けるか、と思い立つのだ。

 ただ、それを発酵と言うのはイメージがな……

 発酵食品と言えば体に良いみたいなイメージがあるけど、関係が発酵すると表現するとなんかこう、イメージが悪いみたいな。

 というか離婚だっけ、結婚じゃなくて。

 離婚かぁ……

 基本的には腐敗だよな。

 じゃあ発酵と言えるようなロジックはあるか?

 発酵って言うと、こう……熟年離婚みたいな?

 もうとっくに終わってるんだけど、子供のためにお互い我慢して、我慢して、子供が独立する頃にはもうそれで慣れちゃってるんだけど、何かの拍子に再燃して、そろそろ新しいスタートを切るにはこれが良い、みたいに互いに納得してお別れ。

 そんな感じだ。

 発酵っていうと、こんな感じなんだよ。

 僕の中のイメージでは。

 離婚、ねぇ……

 仮に僕が離婚するとしたら。今後あのことを言い出せないままギクシャクしていき、ある日妻から話があると呼び出される。テーブルの上には離婚届が置かれている。僕はそこで初めて捨てられたことに気付く。親権は、養育費は、とか色んな問題が出てくる。

 ゾッとした。

 そんなこと考えたことも無かった。

 いや考えて結婚生活なんか送っている人は稀だろう。

 頭も肝も一気に冷えてきた。

 そしてもう、決定的に『腐敗』であることが分かった。

「離婚は………………腐敗です……」

 決定的になった言葉は葉から水滴が滑り落ちるように口から出ていった。

 回答を開始する。

 憂鬱な作業だった。

 僕のゾッとするこの気持ちを、何故そうなるに至ったか懇切丁寧に赤の他人に暴露しなければならないのである。

 力の無い調子で自らの思考を一から語っていく。腐敗と発酵について。そして僕の場合発酵にはなりえないだろうこと。

 僕の生み出したヘドロみたいな空気が場を満たしていく。

 もはや内容を聞いていなくても答えが分かるほどの空気感が出ていた。

 満実は微妙な顔をした。

 同情するわけではないがまあ君は君で大変だね、という時にするような表情だ。

「これはゲームだからあまり感情を入れ過ぎない方が良いのだが、まあ良いだろう。君にとってのそれという問いに対し充分な回答になっている。では報酬だ。『認める』。遠藤と兼咲を使ったのは私だ。任意同行にも応じて詳しく話すつもりだ」

 報酬は、通常なら泣いて喜ぶレベルのものかもしれない。

 僕達がいくら証拠を集めて突き付けても、大臣に突っぱねられたらもう手は出せない。

 それが、素直に認めるという。

 大物を挙げたとなれば伝説になるだろう。

 しかし今の僕は意気消沈していることと、ここより先が最重要なこともあって喜べなかった。

「もう、最終問題が出ても良いのでは?」

 次のお題が出る前に牽制。

 僕は遊びに来たのではない。

 そして満実を挙げることもそこまで重要視していない。

 目的は一つだ。

 最初から焦って最終問題を要求したわけではない。

 ちゃんとゲームには付き合った。

 もう充分だろう?

 視線が交錯。

 緊張の一瞬。

 ヘドロの空気が吹き飛ばされる。

 相手はふむ、と軽く頷いて見せた。

「次のお題ができたら、BMIのシステムの止め方を教えよう」

 遂に一番欲しかった報酬が提示された。

「人の情報を読み出したり上書きしたり、全員を操ったりするのができなくなるんですね?」

「そうだ」

 完璧だ。

 最終目的の扉に辿り着いた。

 これまでのお題で疲弊したがもうひと踏ん張りだ。

 娘だけは守らなければならない。

 はっきり言って他はどうなっても構わないが、娘が操られて将来好きでもない相手の子を産まされるのだけは絶対に阻止する。

 絶対にだ。

 僕は命を賭けてここに来ている。

 どんな問題でも来い。

「ではお題だ」

 満実の雰囲気が変わった。

 一回り大きくなったかと錯覚するほどの重圧。

「優生政策をしなかった場合のデメリットは何だ?」

 そうきたか……!

 この男の核心部分。

 この男の描いた計画。

 なぜ、全員を操るなんていう大層な発想に至ったのか。

 その徹底的な執念には恐れを覚えたものだ……


 車内を出る時、液晶時計が10月28日18時26分を示していた。

『彼はこのためだけに人生の全てを捧げてきたと言って良いでしょう』

 車のボンネット越しにオリヴァーがメモを見せてきたのが印象的だった。

 陽が落ちようとしている。

 僕らがやってきたのは岐阜県。

 使われているのかいないのか分からない寂れ具合の水道事務所が目の前にある。

 悪の親玉が住まう城にしては随分質素に見えるが、遠藤も兼咲もここに行けば本体に会えると言っていた。

 それにアポも取った。

 緊張したものだ、現職の大臣に直電することになるなんて。

 そもそもゴーサインが出たのも未だ実感は薄い。

 僕は報告書の結論欄にどう書いたか?

 あれだけ悩みに悩み抜いて。

 結論から言うと、白紙だ。

 じゃあどうしてゴーサインが出たの?

 答えは、今僕が視線を交わしているCIA職員である。

 報告書を出しに行く朝、オリヴァーと会った。そこで頼んでみたのだ。迂回して日本の警察に言うことを利かせられないかと。

 オリヴァーは分かりました、と言った。そうして彼がどこかに電話をしたら二時間後、僕に上司から電話がかかってきた。すぐ本部に来いと言われた。最初は、何か恐ろしい怒りをかってしまったんじゃないかと勘繰って、おっかなびっくり本部に帰ったものだ。しかし上司に聞かされたのは、君の担当している案件がとても深刻であることが分かった、さっき官邸から協力要請が入った、すぐに動いてくれというものだった。

 満実の友人、家族との面会が次々セッティングされ、更にはBMI研究の関係者らの証言集めと、目まぐるしく聴取してきた。

 蔦の這う水道事務所へ向かって歩き出す。

「僕らが遊びに夢中だった時期に、既に人生をデザイン、ね……」

 奴が中学生の時には、構想が固まっていたらしい。と、教えてくれたのは満実の古い友人だ。

『彼は本当に遠くを見ていたよ。どの高校に行ってどの大学に行って、官僚になる。官僚といってもどの省庁に入るかも具体的だった。凄いよねぇ。それから軍需産業にもパイプを作ると言っていた。僕は何でって聞いたんだよ、そしたら彼が、BMIの話をしてね。この国で実現するには強力な政治的影響力が必要なんだって。何でそれが影響力になるのって聞いたけどね、それは時期に分かるってはぐらかされた。まあ僕は科学が好きだったからね、その時はBMIって面白そうだねとよく話したもんさ。そうそう、元々満実君と仲良くなったのも、相対性理論の話で意気投合したからなんだ。今でも覚えているよ、初めて会った相手に、過去には行けると思うかい……って聞いてきたんだよ。変わってるだろう?』

 本当に驚きだ。

 本当に、そんな学生がいるのか……

 オリヴァーが別ページのメモを見せてくる。

『天才は一つの物事に偏執的なまでに取り組むことができる』

「僕らは道端に転がっている誘惑にフラフラ。なりたい職業にはなれないと信じている」

『その差異は、彼には酷くストレスを喚起するものだった』

 水道事務所の前で僕はネクタイを締め直し、中に踏み入る。

 オリヴァーも続く。

 人気は無い。

 奴に指定されたのは地下。

 エレベータに乗り込み、地下三階を押すと動き出した。

 奴のエリート思想は学生時代に積み重ねられていった。名門高校、名門大学と上がるにつれ、失望が大きくなっていったという。

 満実の友人はこんなことも言っていた。

『彼は不満を口にするようになった。名門校なのに何故こうも馬鹿ばかりなのかと。突き詰めると金が目的の輩ばかりで、何を成すために金が必要なのか答えられる者がいないと。ま、彼からすりゃそりゃそうだわな、彼にとって金とは国家予算だ。やりたいことも、必要な金も、桁が違った』

 そんな調子では回りと上手くいかないのではないか、と僕は訊いてみた。

『それが何だか上手かったんだねえ。主流派の参謀みたいな位置にスルッと収まっている。君は頭が良いから馬鹿にうまく助言して操っているんだろうと話を振ったら、彼はいいや、と首を振った。そしてこう言ったんだ。馬鹿は的確な助言を他人にされるのを嫌がる、それっぽいことを言ってやると良いんだ、よく考えると何にもなってないことを……ってね。いやあこれには舌を巻いたね。彼は出世すると思ったよ』

 そして奴は大臣にまでなった。政治家になってからはイライラする度合いが強くなったらしい。とても放送できないほど政治家連中を罵倒していたようだ。

 その舌鋒鋭い姿は古い友人にしか見せなかった。満実の妻も子供も、悪態を吐く姿など見たことが無いと証言している。奴にとっては家庭も演じる場所だったのか。

 地下は寂れた事務所と違い、研究所になっていた。

 秘密の地下施設なんて初めて見た。

 飾り気の無い壁・ガラス・扉。

 無機質と実用性。

「斯くしてバカを一掃したい願望を叶える方向に動き出した、と」

 僕は歩きながら呟く。

 それにもオリヴァーは律儀にメモを見せてくる。

『優れた者だけが残ればストレスが供給されなくなると信じて』

「優秀な両親の子供が事件起こして……ってのはしょっちゅうだけど。BMIを使った壮大な計画が、今完成しようとしている」

『この計画は人生をデザインした時から存在していたのでしょうか?』

 僕はオリヴァーを見て、この男は本当にメモばかりだな、と思った。

 面倒くさがりなのだろうか……まあいい。

「……奴の性格なら、たぶん」

 扉には鍵が掛かっていなかった。

 まさかとは思うが、銃の感触も確かめておく。

 奥へ進んでいく。

 人とすれ違わないのが不気味だ。

 打ち棄てられた廃墟をロボットだけが掃除しているみたいな光景を思い浮かべてしまう。

 広い部屋に出る。

 正面は背丈より遥かに高い壁になっており、壁の上に行くための簡易リフトが設置されている。

 壁の上に人影が見えた。

 待ち構えていたようだ。

 満実はBMI国家プロジェクトが始動してから、古い友人に決定的なことを語っていた。満実の友人は怪談話でもするように、声を落としてこう言っていた。

『博士たちと会話していると不思議なことに疲れない、普段いかに馬鹿ばかりと会話していたか実感すると言っていたよ。だからね、疲れるなら政治の世界から離れたらどうだと提案したんだよ。そんなにまでしてやることないだろうって。それにBMIをやるってことまでは決まったんだから、もう充分じゃないかって。その時の彼の顔は、忘れられん』

 奴は目を閉じ、冷たい笑みを浮かべたそうだ。

『世の中優秀な人間だけなら良かったのにな。人類は過去それを実施して失敗したという。そうだな……それを再度挑戦してみようか?』

 決定的だ。

 もう疑いようが無い。

 奴のやりたいこと、それは……

 僕はもう一度ネクタイを直し、背広も直し、足を踏み出した。

 行くぞ。

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