第7話 エンジン・ブロー


高速道路は、緩い上り坂に変化した。

負荷が増大し、コンパウンド・ゲージの針が揺れる。

フル・ブーストを得て、激しく震動するFJ20。

高架鉄道を、オーバーパスする。

頂点を登りつめようとするその時、金属がこすれるような微音を彼は感じた。

「!」

スロットルを戻す間もなく、路面は下り坂になって行く。

小口径のピストルが弾けるような音がする。

ルーム・ミラーに、水煙が映っている。

「!!」


ブローだ。


負荷の急変に、ガスケットか何かが耐えられなかったのだろう。

勢いを増した白い紡錘形が、流れ去って行く。

S15が、弾丸のように吹っ飛んでいった。

惰性で、路側に寄せ、彼は天を仰いだ。


「.....。」


ため息。

ボンネットを、水蒸気の飛沫が撫でて行く。

フロントグラスで、それは水滴となり、無数のガラス玉のように。

エンジンが停止したのでやたらと重いステアリングをこじり、

彼はブレーキペダルを蹴飛ばすように停止させた。

それも、負圧アシストが効かないためである。

「.....。」

計器類がすべて停止していて、同じ方向を指している。

眠りについた睫のようだ。

チャージ・インジケータランプの赤が、危機感を演出している。


緩い下り坂の高架高速道路の路側。

防音壁に反響し、トラックのタイアノイズやディーゼル・ノックが不快だ。


ボンネット・ヒッチを外し、彼は外に出た。

昔のアメ車のような音を立て、ドアが閉じた。


ボンネットを開ける。

湯気は殆ど飛んでしまっているので、火傷の危険性は少ない。


一見したところ、補器類に損傷はないようであることを彼は確認した。

それも、予想通りの事だ。


おそらく、ガスケットが高過給に耐えられずに、燃焼ガスを水通路にリーク

させてしまったのだろう。

或いは、冷却水が発泡し、ハンマーリングを起こしたのかもしれない。


いずれにしても確実な事は、ここから動けないということだ。


殆ど無数に思えるほど、車が通過して行く。

この辺りは速度が乗るために、大体が120Km/hは出ているようだ。

たまに走行車線を高速で通過する奴がいると、

その度に体が負圧で吸われる。

今日の仕事は臨時休業だな。

彼は、一人呟く。


巡回の高速警らが、通過しようとする。

トヨタ・アリストだ。

不快なネーミング。

本来、アリスト(クラート)というのは、西洋階級社会における

ある種、シニカルな意味で用いられる差別表現である。

自動車が、階級であるはずが無い。

ただの金属塊に過ぎないのだ。

それを、英語圏でないアジアの辺境で象徴的に用い、

無知な大衆の差別意識を煽る。

いかにも、それらしいあざとい手法である。

それを長期ローンで買い込み、エゴの象徴として御満悦の方々。

嘲笑の格好の対象である。


自動車そのものには、何の意味も無い。ただ実存するのみである。

それを妄想の象徴とし、偶像化を図る送り手と、乗せられる受け手。

内在する暴力的な欲求の象徴。

それは、狂気の一種ではないか?


などと、彼が思ったかどうかは定かではない。


アリストは、黒白のボディを揺らし、巨体を後退させてきた。

路側に停止する。

ダンピングの悪いサスが、巨体をゆする。


白ヘルメットの警官が、助手席から降りてきた。

「どうしました。」


みりゃわかんだろ!と言いたいところをぐっとこらえ、かれは勤めて平静に、

「故障です」

と、静かにボンネット・ラッチを掛けた。

詮索されると面倒だからである。


「レッカー呼びますか?」

警官は尋ねる。

「結構です。」彼は答える。

一般的に、高速隊が呼ぶレッカーというのは、

元警官が経営していたりする

紐付き業者が殆どである。

彼は、その昔風の正義感から、そうした癒着の類を好ましく思わなかった。

そんな連中に、金を払いたくなかった。

その、彼の返答が気に入らなかったのか、警官はこう継ぎ足す。

「本来は、停止表示板表示義務があるのだが....今回は、」

だったら言うなよ。と言いたいところだが、彼もそうした

時期を過ごしてきた大人である。

「すみません」と努めて平静に言う。

「なるべく早く移動して下さい」警官はそう言い、パトに戻っていった。

巨体をゆすり、ダンピング不足によるピッチングを残し、

アリストは去って行く。

あれのどこがスポーツセダンなのだろう?

全く、警官のくせに、気分で対応を変えやがって!

おまえは公僕だろうが!

税金払わねえぞ!

エンジン・ブローの八つ当たりか。

かれは心の中で悪態をついた。

「...ったく...。」


S12は、呟いた。

「とりあえず、仕事をキャンセルしなきゃな。」

彼は冷静に、携帯電話で事務所を callした...。



静かに、アリストは加速を続ける。

助手席に戻ったさっきの警官は、警察無線のマイクをいったん握った。

が、一瞬の沈黙の後、ポケットのデジタル携帯電話を取り出し、

call した。


「...隊長。...」

「...目標、発見しました。..」



........................


インター料金所の側の警ら高速分駐隊。

何故か昼間からシャッターが下ろされたガレージの中に、

半壊の R33 -R のパト。

ガレージの隅で、携帯電話のベルが鳴る。


「......」

「..私だ。」

「..そうか。確保はするな。指令を待て。以上。」


隊長と呼ばれた男は、黒の革コートからオイルライターを取り出し

、煙草に火を付けた。

辺りに、オイルの香りが広がる。


薄紫色の煙が、緩やかに立ち昇る。フランス煙草の甘い香り。


男は、短縮ダイアルで、携帯電話をcall。


「...私だ。」

「...指令を行う。...」

「...通常業務のように行え。それから、無線は使用するな。以上。...」




S12は、事務所の電話番号を何度かcallしたが、

時間帯が半端なので、つながらず

仕方なく、自宅の電話をcallし、電話にでた彼の母親に、

事情を説明し仕事の中断を頼んだ。

彼の母親も、彼と同様実至極実際的な性質であり、

状況は的確に伝達されたようであった。

だが、「母親」と、「女性」特有の感覚が、言語の端に感じ取れるようで、

彼はそのことに少し苛立ちを覚えるのであった。

「俺だって、....。」

心の中で呟いた。


電話を掛けていた彼の前に、中型のキャリアカーが停まった。

白ヘルメットの警官が、助手席から降りてくる。

「ちょっと、お尋ねしますが...」中年の警官は、静かに、

「何だい。」彼の声は、尖っていた。


エンジンブローの八つ当たり。というよりも、

彼自身、故障の原因を解析しきれず、苛々していたのだ。

エンジン内部を分解しなくては、本当の原因を探るのは難しい。

それが解ってはいても、一刻も早く究明したかった。

彼一流の “職人気質”なるが故の行動である。

実際、彼は職業も「職人」にカテゴライズされるタイプの人物であり、

全身で、彼は「職人の人生」を生きていた。

そのような誇りと自負が、彼の人格を支え、

そうして人生を歩んでいく、とても古典的な男のようだった。


しかし、今日はついていなかった。

仲間もみんな仕事に出かけた所で、誰も救援に来てくれる

状況ではなかった。

いや、頼めばすぐに来てくれるのだろうが、この不況下で

仕事にありついている

友人の飯の種をふいにするような行動は彼には出来なかった。

同じ、職人として、お互いの懐具合は良く分かるからだ。


警官は、静かに告げる。

「こんな車をご存知ありませんか?」

インスタント写真。

赤のフェラーリ512の残骸。さっき、転落した奴の車だった。

「知らないね」彼は、努めて無表情に言う。

「そうですか。」警官は、疑問を抱いた様子ではなく、


「実は、先ほど事故が有り、検分中なのですが、

目撃証言を探していたのです。」


そうですか、とも、はい、ともいえず、彼は黙っていた。


警官は、


「とりあえず、車を移動しましょう、ここは危険ですから。」


「いくら取る?」彼は聞く。


「いえ、これは公務ですから。次のサービスエリアまでですけれど。」

警官は、事務的に答えた。


「そうか、じゃあ頼むよ」彼は答えた。


警官は、慣れた手つきでガイドウェイを降ろし、

ウインチのワイアを引き出した。










それから僕は漂うように走りつづけた。

そして、いつもの峠に差し掛かり、道路際の空き地に “7”を停めた。

この場所は丁度コーナーの外側にあり、崖際で見晴らしが良い。

誰もいない。

崖に斜めにマシンを向け、エンジンキーをoffにした。

わずかにディーゼリングし、エンジンは停止する。

3KHz位に感じる耳鳴りが、ずっと続く。

周りの景色が、現実感なく感じる。

全身に、浮遊するような奇妙な感覚。

"trip"してきたようだ。

この瞬間が、また素敵だ。

少し肌寒い風が、抜けて行く。


竹林が、さざめく。


僕は、右足からゆっくりとコクピットを這い出る。

Mountneyのsteeringが、手に吸い付くようだ。

右足が地面に触れると、痺れるような感じ。


遠く、成層火山が、美しい姿を映している。


しばらくそうして、何も考えずにいた。

陽射しがその色温度を低め、時間の経過をやわらかに告げるまで。


いつしか、何故ここにいるのか、どうしていたのかすら遠い記憶の彼方で

塵芥のような存在にすら思えていた。




携帯電話の呼び出し音。

現実に引き戻され、違和感を感じる。

端末のある場所まで戻るまでもなく、呼び出しベルは消え去る。

間違い電話か何かのようだ。

また、静寂がよみがえる。

だが、プラグマティックに、あれこれ連想してしまう。


“水曜日クラブ”の男。

転落死した、F512。

奇妙な、R33-Rの警官?。

そして、記憶の彼方の、ちょっとした痛み。

罪悪感。


そんな、循環思考を断ち切るために、新たな刺激を与えつづけるのだ。

"city" は、僕にとってそんな存在だ。

だから、能動的であらねばならず、また力強い存在でなくてはならず、

そしてまた、分裂的、折衷的であらざるを得ない。

必要悪かもしれない。

しかし、そうした思いがある限り、そうした人々がいる限り。

"city" は、狂った加速を続けるのだ。

あの、男達のように。


また、ベルが鳴った。

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