第23話 7月24日(土)

 ひとしきりふざけ合った後で、俺たちはようやく落ち着いた。それまで心の奥にあった不安の欠片が少しだけ溶けた気がした。気分がすぐれると、やはり体調は正直者なようで、二人してほぼ同時に腹が鳴る。

 片手でお腹を押さえながら顔を見合わせて照れくさそうに笑う唯に対して、俺は立ち上がりながら言葉を返した。


「腹減ったし、なんか食べようか」

「何か作るの? だったらあたしも手伝うけど」

「いや、ちょっと待ってろ」


 同じく立ち上がろうとした唯を差し止めて、一人キッチンの方へ向かう。冷蔵庫、戸棚と順に中身を調べて何か一緒に食べれるものを物色していくと、一つ良さそうなものが目に留まった。


「お、これにすっか」


 レトルトのカレーだ。袋の中にはちょうど二つ残っていたので、俺と唯で食べきってしまおう。ご飯の方は前日に炊いた分がいくつかラップして冷凍庫に残っている。俺は唯の方に確認を取りながら、湯せんの準備を進めた。


「なあ、カレーが残ってたんだけど。これでいいよな?」

「え、ユウの手作り?」

「いや、レトルトだけど」

「ええー、手作りがいいなぁ。あ、今でもお母さんのレシピ使ってるの?」

「今から作ったら時間かかってしょうがねえだろ。まあ……たまに作るけど」

「あたしも一回くらいは食べてみたかったなあ」


 コンロの上に鍋をかざし、先にタイマーをセットした。


                 **


 小さいころ、唯とカレーの具材の話をしたことがあったことを思い出した。その時に俺の家庭では大根が入っているということが普通のとは違うのだと気づいた。別に不味いとか変だとは考えたことはなかったけど、唯と会話しているうちにその特殊さが大きく感じていった記憶がある。

 幼馴染の家庭にカレーのおすそ分けを持っていくなんて経験は一度もなかったが、唯が「食べてみたい」と口にするたびに俺は少しだけ誇らしくなった。

 母さんが亡くなってからは、当然そのカレーを食べることはなくなった。それまで料理なんて一度もしたことのない俺がすぐに真似できるはずもない。もちろん父さんも料理をし慣れているわけでもなかったから、必然的にわが家のカレーはレトルトに変わっていった。それでも、いつだっただろうか――。

 何気ない普通の平日だったはずだ。学校から帰宅した俺はリビングのさらに奥の方から漂ってくるソレに気づいた。いつもと違う何かに、俺はなぜか胸がざわついた。

 担いだままのリュックサックを下ろすことも忘れて、俺は台所に立つ父さんを呆然と眺めた。当の本人は呑気に鼻歌を歌いながら、鍋の中をお玉でかき回していた。

 この時間に帰宅なんて珍しい。早帰りでもしたのか。

 そんなどうでもいいことが頭をかすめていったが、俺はただかすれた声で呼びかけることしかできなかった。


「な、なにしてんの父さん」

「お! おかえり雅勇。いやあー、意外と料理って楽しいんだな。今までまともにやったことなかったから、これであってんのかわかんねーぜ」

「え、いや、それって……もしかして」

「そう、母さんのカレーだよ。ちと昔のアルバム覗いてたんだが、お前が生まれた日のページにこれが挟まっててな」


 そう言って調理場から少し離れた場所に置いてあった紙切れを指でつまむとひらひらと俺に見せるように振った。にひっと笑いながら、小さい取り皿を二枚取り出してそこにルーをすくう。立ち尽くしたままの俺に片方を手渡すと、「ほれ」と乾杯でもするかのようにコツンとぶつけてきた。そしてグイッと傾けて飲み干す。

 「あちちち」と情けなく舌を出す姿に俺は苦笑いしながら同じ格好をした。


「げええ、なんかしょっぱいな……」

「うそだろ、おい。このレシピにはそんな塩なんて入ってない……ああ、くっそ。まさか俺ってば砂糖と塩を煮込みの時に間違えたか!?」

「どんなドジっ子だよ!」

「おいおい待て待て! そんな残念そうな人を見る目を俺に向けるな! た、たまたまだよ! 次は失敗しねえからな!」

「わかってるから、味くらい調えてくれよ……。俺は部屋に上がってるから」

「ちゃんと夕飯の時間には降りて来いよ」

「わかってる」


 父さんに背を向けてリビングを出ていく。自分でも口角が上がるのがわかった。必死ににやけを隠しながら部屋へと駆け上がる。久しぶりの「らしい」会話がなぜか楽しいとさえ感じた。

 その次の日から、父さんは少しずつ帰ってくる時間が早くなったように思う。


                  **


 ぐつぐつと鍋が煮える。沸騰したお湯の中に二つパウチ容器をぶち込むと、タイマーを起動させた。その間に冷蔵庫からラップにくるまれたご飯を取り出して、皿ごとレンジで温めておく。たぶん同時くらいに仕上がるはずだ。

 いつかと同じように俺は鼻歌を歌いながら、しばし待つ。

 一人暮らしを始めてこれでも割と料理をするようになった。今日はレトルトだけれど、この先誰かに手料理を振るったりするのかな。そんなことを考えていると、部屋からの呼び声に意識を持っていかれた。


「ねえ、ユウー」

「なんだー? 今ちょっと火をかけてるから手が離せないんだけど」

「この本棚の裏に隠してあったえっちな表紙の漫画はどこで買ったの?」

「ちょっ! おまっ! それ以上触るな! やめろやめろ!」

「あーコッチにもあったー」

「棒読みでさらに発掘していくな!」


 自分が動けない状態のまま向こうでごそごそと漁る音が聞こえ、俺は少しの間だけ声で格闘することになった。

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