「あら、今日はひとりなの?」


 玄関のドアを開けた光希さんが、僕を見てほほ笑む。彼女の笑顔に恐怖を感じたのは、初めてだった。


「先生はきょう、仕事がありまして……」


 と、僕は嘘をつく。今回の話に先生が関わると、絶対に碌なことにならない気がして、僕は彼女のもとを一人で訪ねることにしたのだ。不審に思われたら、どうしよう、という不安もあったが、光希さんは気にしたふうもなかった。


「それできょうはどうしたの?」


 リビングに座り、僕の真正面には笑みを崩さない怪物の姿がある。


「いえ、実は気付くのがだいぶ遅くなってしまったんですが、僕の自宅の郵便受けに志賀さんからの手紙が届いてたんです。それを読むと、どうしても光希さんと話をしたくなってしまって」


 光希さんの前でも、僕は志賀さんのことを、志賀さん、と呼ぶ。なんとなく癖になっていて、その呼び方はずっと変わらない。


「彼から? ……どんな内容だったの?」


「俺はもうすぐ死ぬだろう。あの時は黙っていて、すまない、みたいな内容でした」


 僕はまた、嘘をつく。


「あの時?」


「ほら志賀さんが亡くなるすこし前に会いに行ったことがあったじゃないですか。あの時点で、志賀さんは自分の死期が近いことを知っていたみたいですね。それを僕に伝えなかったことを気に病んでいるような文面でした」


「あっ、あったね、そんなことも。ついこの間だけど、もう懐かしい、って思っちゃうなぁ」


「もう半年近くになりますからね。僕も短いような長いような、そんな気持ちです。……あの、光希さん」僕は覚悟を決める。「志賀さんの死に、気持ちの整理はつきましたか?」


「えぇ、前も言ったでしょ。大丈夫よ。いまの私はすごく落ち着いている」


「なんで、そんな嘘をつくんですか?」


「何を、言ってるの?」


 と、彼女はちいさく首を傾げる。その仕草には無邪気さがあった。


「だったら……、気持ちの整理がついた、というのなら、なんで殺したんですか? ……五人もひとを」


「殺した? 何を言ってるの?」


 ふふ、と彼女の笑う声に、僕は耳をふさぎたくなる。


「どんな事実を知ろうとも、警察にも、先生にも、誰にも言いません。ここで聞いたことは内密にします。だから本当のことを教えてくれませんか?」


「私はずっと本当のことしか話していない。だって私は誰も殺していないのだから……。別にきみが警察に何かを言うなんて思ってもない。あのひととずっと仕事を続けてきたきみの口の堅さは、信頼しているから」


「それでも真実は話してくれないんですね」


「きみの求める話が聞けないだけで、真実ではない、と決め付けるのは失礼よ。私が彼の死後、彼のためにしたことは、たったひとつだけ。彼を物語から救ってあげること、それだけよ」


「物語から救う……?」


 話が逸れていくことに不安を覚えながら、僕は彼女の語りに聞き入っていた。


「彼の書いた本を読みはじめてから、私はずっと考えていたの。なんで彼は、私に読んで欲しくなかったんだろう、って。恥ずかしいから、とか、そんなこと言っていたけど、あれが言葉通りのはずがない。全然違う。読んでいるうちに、私、すこしずつ私の知らない彼に気付いたの。なんで生きてる時に、こっそりとでも読んで、気付いてあげられなかったんだろう、って思ったくらい。作品の中に描いていたものこそ、彼にとっての現実で、それを読者が物語と勘違いしているだけなんだって」


「あれはフィクションだから、虚構ですよ」


「現実よ。ずっと彼を見てきた、私には分かる。あれは現実。彼は物語に苦しめられてきた長い時間を現実にぶつけるように、小説を描き続けていた。私にだけは気付かれると思っていたから、絶対に私には見せなかったの」


 もう一度、言い返そうとして、やめた。永遠に平行線をたどるような気がしたからだ。


「救う、というのは、どういうことですか? それが五人を殺した動機ですか?」


「だから……、何を言ってるの?」


 首を傾げる彼女は、本当に不思議で仕方ない、という表情をしている。あぁそうか、これは誤魔化しているわけではなく、本当に彼女は、逆、にしてしまったのだ。


「殺してはない、と」


「えぇもちろん。私は物語の中で彼を苦しめてきたひとたちを消してあげただけ。物語の登場人物を、殺す、という意味でなら、私は確かに殺したけれど、それって舞台から消す、ってことでしょ。現実のように罪になるわけじゃない」


 志賀さんが彼女に自作を読ませなかった本当の理由が、いまようやく分かった気がする。


 こんな未来を想像していたのだ。


 でも僕は彼女にそれを口にはしない。言ったところで、きっと彼女は理解してくれないだろう。


 僕は志賀さんから死後届いた手紙を、彼女の前に差し出す。それは僕ではなくて、彼女のために書かれたものだったからだ。


「すみません。さっきは嘘をつきました。これ、なんの間違いか分かりませんが、僕のところに届いたんです」


 僕は、三度目の嘘をつく。志賀さんは封筒の中に、彼女へとあてた手紙だけではなく、僕のみに向けられたメモもしっかりと残していた。


 そこには一言、


〈もし妻の心に闇が巣食っていたなら、彼女を殺してくれ。もし無理ならば、この手紙を彼女に渡してくれ〉


 と書かれていて、彼女への手紙の内容も僕はすでに読んでいる。その時にはまったく意味が分からなかったが、いまなら理解できる。


 僕は彼女がその手紙を読む前に、その場から去ることにした。


 志賀さんから光希さんへと向けられた手紙には、未完のまま出版された彼の最後の作品の続き、その構想が書かれている。物語は主人公の妻の自殺、という形で完結させる予定だった、と。彼女のことを知っているひとなら、誰でもあの作中の妻のモデルが光希さんだ、とすぐに分かるはずだ。


 志賀さんは、どこまでの未来を見通していたのだろうか。もしかしたら誰よりも彼自身が、この手紙が使われることのない未来を願っていたのかもしれない。


 もし彼が生きたままだったなら、この作品の結末はまったく変わっていた気がする。なんとなくだけど、そんなふうに思う。


 小説家の彼が、彼女についた最後の嘘だ。


 さよなら、光希さん。

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