5
どんなに憂鬱でも学校は急になくならない。たまに校舎が爆発して消し飛ぶ夢を見ながら、目覚めとともに、がっかりすることもあった。
水責めの一件以降は、さすがに岩肩たち三人もやり過ぎてしまった、と感じたのか、もちろん彼らの本心など僕には分からないし、知りたくもないが、鳴りは潜めていた。急にふと日常を取り戻して落ち着くこの感覚は過去に何度か経験があり、だから僕は何ひとつ安心できなかった。他者を傷付ける行為が日常的になると、そのうちに異常に満ちていた日常に慣れだし、それがさらなる過激さに繋がっていく。その過激さはだんだんと増していくが、どこかの段階で歯止めの掛かる瞬間がある。やり過ぎてしまった、という後悔や不安が顔を出すのかもしれないし、あるいはすべてがどうでも良くなったように冷めてしまうのかもしれない。
この静けさは、気軽に安心してはいけないものだ、と僕はその時点で過去の体験から知っていた。
すこし時間が経つと、また彼らの嫌がらせ熱は再燃する。
先生と初めて会った日から、二週間ほど経っていた。水責めの一件からは一ヶ月近く経っていたわけで、確かにいまの彼らは鳴りを潜めているが、そんな一時の平穏で僕の憎しみは消えない。それどころか、あんなひどいことまでしておいて、見た目には何事もなかったかのように振る舞える彼らの様子に、僕の中にある憎しみは強まる一方だった。
その過程で何度も、
「憎しみは心の奥底に秘めておきなさい」
という先生の言葉が頭に浮かんだ。
でもそれは僕の怒りや憎しみを減らすためではなく、その逆、背中を押す役割を果たしていたように思う。
僕が先生と初めて会った日から半月が経つその間、先生が僕の家に頻繁に訪れていることは母の口を通して知っていたのだが、僕が先生と顔を合わせたのは、あの初対面の一度だけだった。
もう一度、会いたい……。
彼女の存在には、僕を変えてくれる何かがあるような気がした。なぜそんな風に思ったのかはうまく言葉にできないのだが、彼女の印象がそれほどに強烈だったことは間違いない。そしてふたたび彼女と出会ったのは、僕の家ではなく、家までの帰り道の途中で、彼女と一緒にいたのは岩肩だった。
僕はふたりの姿を見て、とっさに隠れたくなったが、時すでに遅し、というか、
「あらっ、こんにちは――」
と先生が僕の姿に気付き、その声で僕の存在を認識した岩肩が僕に冷たいまなざしを向けていた。
「こんにちは……」
岩肩が近くにいるので、どうも緊張感を覚えてしまい、僕の挨拶の言葉はひどく音量の小さいものになってしまった。岩肩はそれが気に入らなかったのか、わざとらしい舌打ちをして、ふんっ、と僕と先生に背を向けて遠ざかっていった。
「あらら、怒っちゃったね」
あらら、というわりに困惑ひとつしていないような口調で先生が言った。
「いいの?」
「何が?」
「だってしゃべってたんじゃ……」
「もう話は終わったみたいなものだったから、大丈夫」
「岩肩くんと知り合いだったの?」
「いやぁ、今日初めて見た子だね。あの子は面白いね。見どころがある、というか、そういう意味では、あなたにすこし似ているところがあるかもしれないね――」
「そんなことない」
とさえぎるように、僕は先生の言葉を否定した。その言葉に、僕はふたつの意味で嫌な気持ちになり、ひとつの意味ですこしだけ嬉しい気持ちになった。
見どころがある、と岩肩を評価していることと、その岩肩に似ていると思われたことは不愉快だったが、ただ彼女の言葉は、僕にもなんらかの見どころを感じている、という意味にも取れる言い方だったので、それは純粋に嬉しかった。
「ごめんごめん」僕の反撥する言葉に、先生は謝る気のない謝罪を二度繰り返す。「私は仕事の合間を使って、ちょっと探しもの……、というか探している相手がいるの。まぁその一環としてあの子には声を掛けていたんだけど、やきもちを妬かせてしまったかな」
「違う」と返した僕の顔は赤くなっていただろう。それを隠すために、僕はすぐに言葉を続けた。「どんなひとを探してるの?」
「怪物。私は怪物をずっと探しているの」
「怪物……?」
「そう、怪物。もしも見つけたら、私に教えてね」
そう言って先生が、ふふ、と意味ありげに笑って、じゃあね、と僕に別れを告げた。
その時の僕にはまったく意味の分からないものだった。最初に、怪物、という言葉を聞いて僕の頭に浮かんだイメージは、当時テレビで偶然見たビッグフットの姿だった。インチキなのか本物なのか、と口論しているクラスメートがいたのを覚えていて、僕自身は本物だったら夢があって楽しいなぁくらいに思っていた怪しさ満点の獣こそ、まさに、怪物、という呼び方にふさわしい存在に思えた。ただもちろんいまとなっては先生の言う怪物が、そんなUMAの類でないことなど知っている。もっと身近で、怖いもので、僕はこの後すぐに先生の求める怪物と対峙することになる。
三日後の、それもこの日のように学校からの帰り道だった。
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