本能のおもむくまま

 それから、二人がどうなったのかは知らない。

 知りたくなかったのもあるけれど、正直忙しすぎたのだ。新しい派遣の人が入ってきたからその教育もあったし、最終日までに仕上げる作業もある。有給消化すらできない状態で、終電ギリギリの残業だって何度もあった。


 家に帰れば、不用品の処理と英語や技術の勉強。

 睡眠さえまともに取れない状態で、色恋どころの話ではなかったのだ。



 そして迎えた、勤務最終日の就業後。

 私はチーム全員に囲まれて、送別会の主役になっていた。

「澤村さん、今日までありがとうございました!」

 幹事の宮田さんが、声を張り上げて挨拶をしている。小さな居酒屋を貸し切っての宴会は、チーム外から参加した人もおり、全部で15人ほどの人数になった。

「では! ここで澤村さんから一言、お願いします!」

 促されて、私は軽く頭を下げつつ立ち上がった。

「長い? 短い? よく分からないけど、皆さんお世話になりました」

 歓声と拍手が巻き起こる。全体をぐるっと見渡し、途中で葉月さんが目に入った。

 穏やかな笑顔だ、心が読めない。

「実は私、再来週から次の勤務先に移る事になってまして」

 周囲がおおっと声を上げた。さらに辺りを見渡す。リーダーは、うつむいていて表情が見えない。

「だから溜まってた仕事がなんとか終わって、本当に良かったと思ってます。もう心残りはありません! みんな、手伝ってくれてありがとう! お世話になりました!」

 頭を下げて座ると、周囲から拍手が巻き起こった。

「皆さん静粛に! では、澤村さんのますますのご健闘を願って! 乾杯!」

「「乾杯!」」

 全員がグラスを掲げた。その直後から、周囲は私を引っ張り質問攻めにした。



「澤村さあん、会社辞めても、私と飲んでくださいねえ?」

「あはは……しょうがないな」

 いつものように絡んでくる唯ちゃんを、私は笑ってハグしていた。

「今日の澤村さん、優しすぎて辛いいいい」

「なんでよー。ちょっと、泣かないでよー」

 彼女には後で本当の事を話そう。ついでに連絡先も教えよう。

「あれー! 澤村さん全然飲んでないじゃん」

 宮田さんがやってきて、私のハイボールのジョッキを見た。

「みんなが来るから、飲む暇がないのー」

 それでも嬉しいけどね。感謝だとか、激励だとか、心配だとか、いろんな言葉を私に残してくれて、胸が優しさと暖かさでいっぱいだ。

「今日くらいは私も酔いたいんだけどね、無理みたい」

「いやいや飲みなよー、酔っぱらったら送ってあげるから」

「送って、それからどうするの?」

 意味ありげな視線を送ってやると、宮田さんはまんざらでもない顔をした。――こいつ、相変わらず第三の脳下半身男だな。

「じゃあ、私もいただきます!」

 私はハイボールを一気に飲んだ。

「あれぇ、でも澤村さんがハイボールなんて珍しい」

 唯ちゃんの呟きが、途中から少し遠くに聞こえる。

「そりゃ、この濃さは酔いやすいから――」

 言うそばから、世界がゆらゆら揺れる。

 濃い目のハイボールは一番酔う。だから私は、今まで絶対に飲んでこなかった。だけど忙しさでロックした頭を、いや、恋に迷わぬよう封をした本能を、今日こそは解き放ちたかった。



 業務の裏で、ずっと怯えていた。

 私のまわりで、恋が進展することを。

 だけど声をかける時間も余裕も残ってなくて、確かめる暇すらなくて。

 疑心暗鬼で酷い顔になっていくのが、もう限界で。

 だったら全部解放して、嫌われて去ってやろうじゃないかこの野郎。



「おい、やめとけ!」

 肩を掴まれて振り返ったら、すぐ近くにリーダーの顔があった。

 ――あれ。でもこの顔、最後に見たのいつだっけ。

「お前、本当は酒が弱いって言ってたろ」

「もう、ふわふわしてます」

 キシシ、と笑ってやると、リーダーは困ったように額を覆った。

 私は自然に、いとも自然に肩に置かれた手を掴んだ。

「あの日の答え、まだでしたよね」

「え? あ、え?」


 私は掴んだ手をそのままに、体をリーダーの正面に向けた。そして片膝を立てた格好で、その手の甲にそっと口づけをする。まるで姫を慕う王子のように。


「ちょ、おまああああっ」

 顔を真っ赤にして慌てるリーダーを見て、私は笑みが止まらなかった。

「澤村さんっ、やっ、今の何っ!」

 騒ぐ唯ちゃんの額にもキスをして、私は更にハイボールを煽った。こっぱずかしい記憶よ飛んじまえ。私の本当の心残りも、ここに全部捨てていくんだ!!




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