辞職願

「……あはははは……」

 カリフォルニアで面接を受けて1週間後。

 私のスマホには、合格通知が届いていた。


 え? 私、結構英語ヤバかったよね?

 え? 私、「準備に最低2カ月かかる」って伝えたよね?

 え? 私、「大学でコンピュータ学んでない」って伝えたよね?

 え? 私、「日本の資格も無資格です」って暴露したよね?


 それでどうして合格するんだ。

 何か見落としてるだろ、スカウトメンバー!


『そりゃ試験をクリアして、しかも美春が前向きな態度を見せられたからだろ』

 スマホの向こうから、通話アプリを介して従兄の秀斗が呆れている。

「前向き?」

 まあ、後ろ向きな性格ではないけど。

『日本人には少ないんだよ。やりたい事のプレゼンができる人はいるけど、自分の欠点も把握して、なおかつ現実的なビジョンを話せる人って』

「そうかな?」

『僕らの田舎の大人たちに、そんな人いた?』

「――いないね」

 うん、納得した。

『じゃあ、こっちの部屋は僕が嫁さんと探しておくから。そっちの片付け頑張りな』

「うん、ありがとう」

 私は通話を終了させると、さっそく縦書きの便箋に向き合った。

 辞職願、書かなくちゃ。




 翌朝、私は辞職願を課長に提出した。

 私の封筒を見た途端、課長は慌てて私をミーティングルームに引っ張っていった。

「どういうこと。何があったの」

「実は」

 私が某世界的企業に採用された事を告げると、課長は目を丸くして固まった。

「え、六本木のアレ?」

「いや、カリフォルニア本社です」

「え!えええ!?」

「私もびっくりです」

 ダメ元で受けたし。ぶっちゃけ、英会話を勉強した以外なーんも準備しなかったし。

「それで、できるだけ早く退職したいんですが。先方には2カ月と伝えてありますので、それまでに」

「……いや、急に言われてもなぁ……でも、うちに引き留めるには、会社の格が違うしなあ……」

 課長はぶつぶつ言った後、「うん、わかった」と辞職願を受理してくれた。

 私はぺこりと頭を下げた。

 これで私の退職は決定した。


 その日は淡々と仕事をこなした。新しい案件はとっくに決まり、現在はリーダーと営業が先方と基本仕様を詰めている。私達は、その内容を正式な基本設計書として図に落としている最中だ。

「これやだな、面倒なテーブル構造だな」

 葉月さんがぶつぶつ文句を言っている。大学院を卒業し、誰よりも知識量の多い彼女の呟きは、チーム全体を不安に陥れる。


 18時になり、社内のスピーカーから穏やかな音楽が流れてきた。定時時間だ。

 私は机の上をいつものように片づけて、自分で買ってきたウエットティッシュで拭いた。もとより物は持たない方だ、他の人のように写真やサボテンを飾ったりもしていない。

 ――急に、『辞めた』という時間が襲ってきた。2カ月後には、ここに別の誰かが座っている。いや、1か月後には今やっている作業も誰かに引き継いで、私なしでこの会社が回っている。


 寂しいけど、悲しいけど、それが会社という場所で、それが仕事というものだ。

 それに私は、誰かに必要とされたいから働いているんじゃない。たとえ私と知られなくてもいい、誰かの役に立つものを作りたいだけ。私が満足したいだけ。

「澤村さん、お疲れですか?」

 唯ちゃんが心配そうにこっちを見ている。

「いや? 全然。じゃあお疲れ」

 私はPCがシャットダウンしたのを確かめ、鞄を持って席を立った。チームのみんなとも、もうすぐお別れか。それは正直寂しいかもな。



 廊下の突き当りにあるエレベーターを待っていたら、背後からけたたましい靴音が奔ってきた。それはエレベーターに乗り込もうとしていた私の腕を、痛いほど強く掴んだ。

「あの」

 リーダーが、鬼のように赤い顔で私を睨んでいる。先にエレベーターに乗り込んだ人々が、何事かと息を飲んで私達を見ている。

「来い!」

 一言大声で怒鳴ると、リーダーは私を振り向かずにそのまま渡しを引きずっていく。

「あ、あのっ?」

 朝、課長に辞職届を出した同じミーティングルームに、私は強引に連れ込まれた。

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