性欲が恋でない理由

 翌日のお昼。休憩室の一角で、澤村さんを見つけた。

「ご一緒、いいですか」

 私が声をかけると、彼女は驚いたあと、屈託のない笑顔になった。

「どうぞ。葉月さんがここに来るって、珍しいね」

 気まずそうな様子もなく、あっさりとソファの隣を空けてくれる。この人の神経って、本当にどうなってんだろ。昨日自分が画策した事の結果に、興味ないのかしら。

 私は軽く頭を下げて、滑るように席についた。自分が作ったお弁当を広げ、小さく手を合わせる。

 ちなみに、澤村さんのお昼はコンビニのおにぎり1つとサラダチキン、あと野菜ジュース。栄養のバランスが悪そうだけど、大丈夫なのかしら。

「派遣元から、なんか連絡あった?」

 尋ねられて、私はちょっとうつむいた。

「はい。もう、今月は残業しないでくれって」

「この仕事してて、それは無理よねぇ」

 澤村さんがため息交じりに言って、おにぎりをほおばる。その仕草は確かに男らしくて、この人はもしや女の体をした男かな、なんて思ってしまう。ほら、LGBTとか ――違うか。リーダー襲ってるんだし。

 そこで私は我に返った。そうだ、その事実と真相を聞きたくてここに来たんだ。

「澤村さん。リーダーから聞きましたよ」

「何を?」

「襲った、とかって話」

 途端に、澤村さんは心底おかしそうに笑いだした。ええ? 今の話、笑える要素あった? むしろ凍りつくとか、慌てるとかするもんじゃないの?

「いっやー、あれは本当にヤバかったよね! ちゃんと素に戻れた自分を褒めたいわ」

「じゃあ、事実なんですね……」

「まあね。言い訳のしようもないよね、あれは」

 なんで、ここまであっけらかんとしていられるんだろう。だって襲ったってことは、犯罪でしょ。そうでなければ、同意の上というか……ああ同意の上なのか。リーダーは澤村さんの事好きだし。

 あ。気が付いたら滅入りそう。てかどうして、その事実を確かめに来ようとした、私。

「てか……好きなら、そのまま付き合っちゃえばいいのに」

「性欲の反応は好きとは違うから」

「好きな人見たら、ムラムラって来るでしょ。てか、性欲なかったら子供もできないじゃないですか」

 常識を思いっきりぶつけてやったのに、澤村さんは真顔になった。

「性欲がなくても子供はできるよ」

「そりゃ今は、医学が進歩してるからそうかもしれな――」

「そうじゃない」

 彼女はうつむいて、大きく息を吐いた。

「私はさ。小学校の頃、レイプされかけたんだ」

「はあ……」

 これって深刻な話なのだろう。でも私はそういうの、漫画の中でしか知らないけど。

「レイプ犯ってね。マンガで描いてるみたいに、分かりやすくニタニタしてなんかいないの。目もギラギラしていない。無表情だし、目も血走ってなくて、普通の人間にしか見えない。違うのは、獲物の服を剥がすことに必死なところだけ」

 私は黙ってお弁当の卵焼きを食べた。なんか、色々口に出しちゃいけない雰囲気。

「私は被害者だけどさ。自分にもそういう衝動があるわけよ、同じ人間だもの。だけどそれ、自分ならOKだなんて都合のいい話、ある訳ないじゃん」

「うーん、難しく考えすぎな気が」

 あまりにも現実味がなくて、私には分からないや。異世界の話って感じ。

「そうかもだけどね。……いやーしかし! 今日の部長さぁ、機嫌悪くなかった?」

 澤村さんは、さらっと話題を変えた。私はそうですねーと相槌をうち、そのあとは他愛ない話をしてお昼を過ごした。



(なんか罪悪感~)

 今日は定時で職場を上がった。いつもこっそりサービス残業を続けていたので、定時退社って社員の皆様に申し訳ない気分になる。

 少しお買い物をしてから、私は駅に向かった。ホームに向かうエスカレーターに乗った時、ちょっとした違和感があった。

(なんか、後ろの人近い)

 スーツを着たサラリーマンが、私の背後にぴったりとくっついている。気持ち悪くて数歩進むと、その人もついてくる。

(ええ、何この人)

 だけど私は、直後に逃げ場を失った。前の人に追いついてしまったし、サラリーマンの後ろにも多くの人が並んでいる。

 太ももに、何か堅いものが当たった。なんだろうと振り返った時、サラリーマンの顔がちらりと見えた。


 無表情で。

 目も普通で。

 だけど口を半開きにして、手だけを必死にゴソゴソしている。


 私、何かされてる。

 背筋が凍る。

 でも、どうしたらいいのか分からない。

 怖くて、体が動かない。


「ハイお兄さん、ちょっといいですか!」

 突然、中年のおじさんがサラリーマンの手を掴んだ。途端にサラリーマンの顔に、焦りの表情が浮かんだ。

「な、なんですか、何があったんですか」

「持っているスマホ見せてもらえるかな!」

「いや、個人情報なんで……」

「うちら、交通警察なのよ。お願いだから見せてもらえるかな!」

 途端、サラリーマンは私を突き飛ばすようにしてエスカレーターを駆け上った。おじさんは外見に似合わない素早さで、サラリーマンを追いかけて、ホームでタックルした後そのまま相手の背中に膝をめり込ませた。

「19時35分! 痴漢容疑で確保!」

 私はその逮捕劇を目の当たりにして、倒れそうになったのを誰かに支えられた。

「お嬢さん、悪いけど話聞かせてもらっていいかな」

 警察の人なのか。そう察した私は、力なく頷いた。



 事情徴収で2時間くらいかかっただろうか。やっと駅構内の交番から解放されて、私は疲れ果てていた。

「葉月さん」

 声をかけてきたのは、何故か澤村さんだった。

「どうして」

「通報者だもの」

 私は澤村さんの方にふらふらと近づいて、たまらず抱きついた。澤村さんは驚きもせず、優しく背中を撫でてくれた。

「こわかった……」

「だよね」

 ぶわっと涙があふれた。我慢したくても止まってくれない。

「思いっきり泣きなよ。大声で」

 恥ずかしいと思ったのは一瞬で、私は澤村さんの胸の中で思いっきり泣いた。怖かった。辛かった。たった数十秒の瞬間が、とてつもなく孤独だった。

「澤村さん、聞いて、いいですか」

「何?」

「あれも、性欲なんですか」

「そうだよ」

「あんなのに、愛とか、恋とか、あるんですか」

「ない。絶対に、ない」

 私は、また激しく泣いた。そんな私をずっと抱きしめてくれる澤村さんが、なんだか母のようで、理想の王子様のようでもあって、とにかく私は全力で甘えつくして泣いた。

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