幻想痛と恋人


 大量の酒が入ったビニール袋を持って家路を歩く。


 あの人はまだ不機嫌なままだろうか……。


 逃げてしまいたいけれど、他に行くところもないし、何よりも私は、あの人を愛している。


 あの人に殴られるのは、初めてのことじゃない。


 これまでの日々を思い返すと、もう治りかけの痣や傷が今も痛む。これは私の幻想による痛みなのだろうか……。


 付き合い始めた頃は優しい人だった。


 酒はたしなむ程度だったし、私のことも大切にしてくれていたと思う。女に手を上げるなんて冗談でもありえないと、そんな内容のドラマやニュースを見るたびに言っていた。


 きっかけは些細なことだった。


 彼がイライラした様子で仕事から帰ってきた所に、たまたま合鍵を使って彼の部屋にいた私が居合わせた。


 ただ事ではないと感じていながらも、私は明るく振舞っていた。


 そのあと彼の持つグラスに酒をぎながら、ひたすら愚痴を聞いていた。


 呂律が回らなくなってきた頃、「そろそろやめたら?」と酒をしまおうとしたその時、私の頬を彼の手が叩いた。


 彼は何か怒鳴っていたけれど、私は驚きと恐怖で固まり、何を言われたのかよく覚えていない。いや、酒の回った彼の言うことが聞き取れなかったのかもしれないが、今となっては確かめるすべもない。


 1度目の時は翌朝、赤く腫れ上がった私の頬を見て、彼は平身低頭で謝った。


 そんな彼を私は許し、タイミングが悪かったのと酒の飲みすぎのせいだと安堵した。


 しかし、私の考えは甘かったとすぐに思い知らされることとなる。


 彼は会社を辞め、ギャンブルを始めた。


 それから何やら精神科にも通うようになり、日を追うごとにその薬の量は増えた。


 繋ぐ手の力が弱くなった。


 会う時間が減った。


 電話すらしなくなった。


 酒を買いに行かせるか殴るかするために、私を呼び出すようになった。


 突然電話をかけてきて、泣きながら謝ってくるようになった。


 はたから見ればそんな男、捨てて逃げてしまえと思うだろう。


 しかし私にはそれができなかった。


 許せない、離れたい。


 愛してる、忘れられない。


 どうしようもなく弱々しい声で電話をかけてくるあの人の声を聞くと、自分に手を上げることでその心に少しでも安寧が訪れるのなら、と受け入れようとしてしまうのだ。


 そうしてまた傷は増え、いつかは消えていく。その傷もまた、突如として痛みだす……。


 そんな螺旋の中で、私は生きている。


「……買ってきたよ」


 傷だらけの手で、あの人の待つ部屋の扉を開けた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る