名前も知らない恋人
初めて身体を重ねた男の胸板の硬さを、今もまだ覚えている。
雨が降っていたとはいえ、まだ昼間のうちに連れ込まれたその部屋は、扉を閉めた瞬間に「夜」と化した。
不自然なくらい自然な優しいあの笑顔は、私の警戒心を解くための仮面に過ぎなかった。
繋いでいた時は暖かく感じていたはずの指は、意図が見えてしまえば氷のようだった。
唇は、舌はもっと冷たかった。
さっきまで街ビルの影で肩を濡らしていた雨の方が、ずっと暖かいように感じた。
あのまま1人、雨に濡れていた方がずっと良かった。
今となっては、この男の優しい言葉の嘘にまんまと騙されてしまった自分に腹が立つ。
あの時、頬を濡らすのが雨ではなく涙だと、この男が気づかなければ、いや、そもそも私が家出なんてしないで、素直にすぐ家に帰っていれば、こんなことにはならなかったはずだった。
そう後悔しているうちにも、甘い言葉が私を傷つけ、その傷に塩を確実に塗りつけるように、細い指が、濡れた唇が、器用に動く舌が、この身体を這っていった。
こんなはずじゃなかったのに……。
そう思うと後悔と恐怖で涙が溢れた。
「ごめんね」
目の前の男は悪びれもせずにそう言って笑うと、涙を拭うように頬にキスを落とす。
「……いや」
やっと口にした拒絶の言葉は、自分でも情けなくなるほどに弱々しく、男の欲情をさらに煽ってしまったようだった。
「可愛い……」
男はまた不敵な笑みを浮かべ、今度はさらりと髪を撫でる。
それからどんなことをされたのか、どんな言葉をかけられたのか、目が覚めた時にはもう、覚えていなかった。
ただこの男の冷たさと、抱かれた腕や胸の硬さ、そして男の冷たさとは反比例するように、自分の身体は熱を帯びていたのを覚えているだけだった。
「おはよう、目が覚めた?」
隣では裸の男が、柔らかな笑顔の仮面を貼り付けている。出会ったばかりの、名前も知らない男。
「ほんと、可愛い子」
まだ脳が十分に活動を始めないまま、ぼーっと男を見つめることしかできない私を見て、男は愛おしそうに目を細めて私の頭を撫でる。
この表情もきっと作り物だろう。
だけどこんなのは初めてだった。
何かに抗うために家を飛び出した先で出会ってしまった知らない男。多分、まともではない、悪い大人。
怖いくらいに妖しく、魅惑的なこの状況に、私は酔いしれたくなってしまった。
「……ねぇ、私まだ、帰りたくない」
仮面の下で、男の口角が妖しく歪んだのを見たような気がした。
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