はじめての告白(※今度は、現実)

 手渡されたバトンを受け損ねて、ぽろりと取り落とした。グラウンドにころころと転がったバトンを慌てて拾い上げて、「ごめん」と詫びる。

 おれの前の走者である橋本は、腕組みをして渋い表情を浮かべた。


「今はいいけど、本番で落とさんといてや。高梨アンカーなんやから、責任重大やで」

「……はい、がんばります」


 容赦なくプレッシャーをかけてくる橋本に、おれは身を縮こませる。悪気はないのだろうが、相変わらずキツい女だ。

 滲んだ冷や汗をリストバンドで拭うと、つい璃子の姿を探してしまった。運動音痴の璃子は、必要最低限の競技にしか出場しないはずだ。棒引きをしている女子の中にも、ポンポンを振っている応援団の中にも、彼女の姿は見つからなかった。

 おれはぼんやりと、昨夜の夢のことを思い出す。いつもと同じ白い部屋の中に、璃子の姿だけがなかった。待てども待てども璃子は現れなくて、おれはとうとう夢の中でも嫌われてしまったんだな、と思った。ハルくん大好き、と笑って甘えてくれる彼女は、もうどこにもいない。いや、最初から存在などしていなかったのだ。幸せだった夢の記憶が、さらさらと塵のように消えていく。

 あんなことをして泣かせたのだから、本当は潔く諦めるべきなのだろう。それでもおれは、性懲りもなく彼女のことを欲しがっている。昨日触れた唇にもう一度触れたい。おれのくだらない話で笑ってほしい。そんなことを望む資格なんて、今のおれにはないくせに。

 ふいに視線を感じて、おれは何気なく振り向いた。紺色のジャージを着た璃子が、グラウンドのすみっこに突っ立っている。目と目が合って、息が止まりそうになる。こちらを見つめる彼女は、なんだかやけに青白い顔で、今にも泣き出しそうな表情をしていた。

 ……そんな顔するくらいなら、なんでこっち見てんねん。

 ふいに、璃子の身体がぐらりと傾いた。まるでスローモーションのようにゆっくりと、華奢な身体が崩れ落ちていく。彼女がグラウンドの上に倒れ込んだ瞬間、おれは思わず叫んでいた。


「璃子!」


 突然の出来事に、クラスの連中がざわつく。

 おれよりも一歩早く璃子の元に駆けつけたのは榎本だった。璃子の身体を軽く揺すって「大丈夫?」と声をかけている。横たわった身体はぴくりとも動かない。

 璃子に何かあったらどうしよう。おれの心臓が嫌な音を立てる。榎本は璃子の顔を覗き込んで、小さな息をついた。


「……璃子、寝てるみたい。寝息たててる」


 榎本がほっとしたように頰を緩めた。おれもひとまず安心したが、このままグラウンドに放置しておくわけにもいかないだろう。駆け寄ってきた拓海が、璃子の顔を覗き込む。


「浅倉さん、大丈夫やった? 頭とか打ってへんといいけど。一応保健室連れていこか」

「うん、せやな」

「俺、運んで行くわ」


 拓海が璃子を持ち上げようと、彼女の背中に腕を差し込んだ。おれは反射的に拓海の肩を掴んで、それを阻止する。


「なに?」


 拓海は咎めるような鋭い視線をこちらに向けてくる。しかし、おれも引くつもりはない。おれは強引に拓海を璃子から引き剥がした。


「……おれが運ぶ」

「出たよ、彼氏ヅラ。おまえ、別に浅倉さんと付き合ってへんのやろ?」

「付き合ってへんけど、おれの片想いやけど、おれは浅倉のこと好きやから他の奴に触られたくない!」


 おれがきっぱりと言うと、周囲の野次馬からおおっという声があがった。誰かが揶揄うように口笛を吹いたので、おれは「うるさい!」と怒鳴りつける。後からいろいろ言われるかもしれないが、今はそれどころではない。


「……高梨くん、璃子のこと任せていい? 河嶋先生には、うちから伝えとくから」


 榎本が言ったので、おれは頷く。どうやって運ぼうか少し悩んだが、背中と膝の裏を支えて横抱きにした。やっぱり璃子は軽くて柔らかくていい匂いがする。とはいえこれは救助活動なので、不埒な感想は頭のすみっこに追いやった。



 保健室の扉には、保険医は不在との札が掛かっていた。璃子を抱えて両手が塞がっているので、行儀は悪いが足で扉を開ける。

 中には誰もいなかったが、一応「失礼しまーす」と声をかけてから、璃子をベッドに寝かせた。璃子はすやすやと穏やかな寝息を立てている。柔らかそうなほっぺたに触れたかったけれど、ぐっと堪えて彼女の身体に布団をかぶせてやった。

 ベッド脇にあるパイプ椅子に腰を下ろして、璃子の寝顔をまじまじと見つめる。夢の中では見慣れているが、現実に見るのは初めてだ。伏せた睫毛が長くて、無防備な寝顔は赤ん坊のようにあどけない。璃子の寝顔なら一生見てられるな、とまたしても変態のようなことを考えてしまった。

 ……やっぱりどんなにがんばっても、諦められそうにない。他の男が璃子に触れるだけで、気が狂いそうになるのだから。もう一度ちゃんと謝って、それから好きだと伝えよう。振られたら死ぬほど落ち込むだろうけど、それはそれで仕方がない。

 十分ほどが経っただろうか。飽きもせずに璃子の寝顔を見ていると、彼女の瞼がゆっくりと開いた。焦点の合わない目をぱちぱちと瞬かせてから、首を回してこちらを向いた。おれの顔を見て、驚いたように目を見開く。


「ぎゃっ!」


 小さく叫んだ璃子は、ベッドの端からゴロゴロと転げ落ちた。ゴン、と鈍い音が静かな保健室に響く。


「あ、浅倉! 大丈夫!?」


 璃子は後頭部を押さえて床の上に転がっていた。小さな手を引いて助け起こすと、璃子がはっとしたようにおれの手を跳ね除けた。二度目の拒絶が、おれの心臓にぐさりと突き刺さる。そんなおれの反応に気がついたのか、璃子は申し訳なさそうに目を伏せた。

 ベッドの上に座った璃子は、現状を確認するように周りを見回している。まだ顔つきがぼうっとしているようだし、記憶が曖昧なのかもしれない。


「浅倉、授業中に倒れてんで。覚えてる?」


 おれの言葉に、璃子はしばらく考える様子を見せた後、小さく頷いた。おずおずと口を開く。


「……高梨くんが、ここまで運んでくれたん?」

「……浅倉は嫌やったかもしれへんけど、一応」


 あんなことがあった直後だし、本当は拓海に運んでもらった方がよかったのかもしれない。それでもおれは、絶対にこの役目だけは誰にも譲りたくなかったのだ。璃子のためでもなんでもない、ただのおれのワガママだ。

 璃子はぶんぶんとかぶりを振ると、ぐしゃりと顔を歪めて、瞳を潤ませた。おれがギョッとしているうちに、彼女は布団の中に潜り込んでしまう。ややあって、くぐもった声が聞こえてきた。


「……間違えた、って誰と?」

「え」

「誰と間違えてキスしたん?」


 おれは一瞬、璃子が何を言っているのか理解できなかった。布団の中からぐすんと鼻を啜る音がして、涙声で彼女は続ける。


「なんで、お部屋にコンドームがあったん? しかも、なんで開封済やったん? なんで、手繋ぐの慣れてたん? 髪の毛いじるの、誰で練習したん?」


 ……もしかすると璃子は、勘違いをしているのではないだろうか。動揺したおれが口をぱくぱくとさせていると、璃子はついに子どものように泣きじゃくり始めた。


「私以外の、誰とキスしようと思ったん……?」


 とんでもない誤解だ。おれがキスしたい女の子は、この世界に璃子ただ一人しかいない。


「ちょ、ちょっと待って!」


 璃子がどんな顔をしているのか知りたくて、おれは思い切り布団を引っぺがした。眼前に現れた璃子の顔は、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっている。顔を隠そうとする手首を掴んで、彼女の顔を真正面から見つめた。黒くて丸い瞳は涙で潤んでいて、まるで宝石みたいにきれいだ。


「浅倉、なんか勘違いしてる!」

「……勘違い?」

「おれ、誰とも間違えてへん。浅倉にキスしようと思って、キスした」

「で、でも、間違えたって言った……」


 璃子は言ったが、正直なところあまり覚えていない。なにせ、あのときは気が動転していたのだ。もし本当に「間違えた」と口にしていたとしたら、それは……。


「間違えたって、そういう意味ちゃうねん! えーと、なんというか……夢と間違えたっていうか……」 

「夢……?」


 きょとんとした璃子が瞬きをすると、透明な涙が頬を流れ落ちる。

 いざ説明しようとすると、おれは困ってしまった。果たして璃子の勘違いを、どうやって正せばいいのだろうか。こうなったら全部、正直に話すしかないのかもしれない。

 おれは彼女から手を離すと、大きく息を吸い込んだ。


「……浅倉。おれ今からめっちゃキモい話するけど、聞いてくれる?」


 璃子は起き上がると、枕元のティッシュで鼻を噛んで涙を拭った。背筋を伸ばしてこちらを見てくれたので、話を聞いてくれるということだろう。おれも居住まいを正して、口を開く。


「おれ、今年の四月くらいから毎晩浅倉の夢見てんねん。変な白い部屋の中にいて、めっちゃくちゃリアルな夢で。ほんで、夢の中では……浅倉のこと璃子って呼んでて、キスしたりとか、他にもいろいろ……ここじゃ言えへんようなこと、いっぱいしてる」


 言いながら、改めて口にするとめちゃめちゃ気持ち悪いな、と実感した。話しているうちにどんどん胃が重苦しくなり吐きそうになってきたが、ここで止めるわけにはいかない。


「だんだん夢と現実の境界がわからんくなってきて、現実の浅倉とキス、したいとか……思うようになって。ほんで寝ぼけて……ついうっかり、やってしもた」


 そこまで言い切って、璃子の様子を窺う。彼女は呆然と目を見開いて、おれのことを見ていた。心底驚いてはいるようだけれど、その目に軽蔑の色は見えない。と、思いたい。


「……引いた? 引いたやんな、ほんまごめん……」


 おれが璃子にしたことを考えると、何度謝っても足りない。彼女の瞳に映っている男は、ずいぶんと情けない顔をしていることだろう。

 呆然と黙りこくっていた璃子は、やがてゆっくりと口を開いた。おれの好きな、鈴の鳴るようなかわいい声が聞こえる。


「……ハル、くん」


 耳を疑った。この世界でおれのことをそんな風に呼ぶのは、ただ一人しかいない。


 ――じゃあ、ハルくんっていうのは?

 ――誰もそんな呼び方せーへんけど。

 ――その方が特別感あっていいかなって。


 いつか夢の中で交わしたやりとりが蘇る。そんなまさか、それを現実の璃子が知っているはずがない。

 おれは躊躇いながらも璃子の頰に手を伸ばして、指先で涙の跡をそっと撫でた。璃子は嬉しそうに微笑んで、おれの手の上から小さな掌を重ね合わせる。


「ハルくん」


 現実の璃子が、夢と同じ声で、同じ顔で、同じトーンでおれの名前を口にする。ずっとずっと探していた女の子に、おれはようやく出逢えた気がする。


「……璃子?」


 確かめるように名前を呼ぶと、璃子がこくこくと何度も頷く。幸せすぎて、なんだか目眩がしてきた。まだ、おれにとってものすごく都合の良い夢を見ているんじゃないだろうか……。


「わっ」


 感情の赴くままに抱きつくと、璃子はベッドの上に仰向けに倒れ込んだ。安っぽいパイプのベッドがギシリと軋む。おれは彼女の身体に覆いかぶさって、ぎゅうぎゅうと力をこめて抱きしめた。「ハルくん、苦しい」と耳元で笑う璃子の声は、紛れもなくおれの恋人のものだ。


「まだ信じられへんねんけど……璃子もおれと同じ夢見てたってこと?」

「た、たぶん……」


 不思議なこと話だが、言われてみれば納得もできる。あまりにもリアルな感触とか、やけにクリアな思考とか。璃子の胸に、現実と同じ痣があったこととか。おれが知り得ない情報を夢の中の璃子が口にしていたこととか。ただの夢にしてはおかしいと思っていた。


「……でも璃子、夢の中でいろいろすごいことしてたけど……あれも全部おれの妄想じゃないってこと?」


 おれが言うと、璃子は首まで真っ赤になった。あわあわと唇をわななかせて、「だ、だって、ゆ、夢やと思ってたんやもん!」と弁明している。


「あの、夢やから大胆なこといっぱい、しちゃったけど……私そんな、えっちなことに慣れてるとかちゃうくて……」

「……夢の中の璃子、エロくてかわいかった」

「もう! 忘れてよー!」


 璃子が両手で顔を覆う。そんなの無理だ、絶対に忘れたくない。おれは嬉しくなって、真っ赤になった耳にキスをした。途端に「ひゃっ」と甘い声をあげる璃子は、やっぱり耳が弱いらしい。


「こ、ここ学校……」


 璃子が指の隙間から、咎めるような視線を向けてくる。璃子がかわいくてつい調子に乗ってしまったが、おれだってこんなところで事に及ぶつもりは毛頭ない。おれは「ごめん」と詫びて起き上がった。


「ハルくん」


 璃子も上体を起こすと、ベッドの上で正座をする。やけにかしこまった真剣な表情で「あのね」と口を開いた彼女が何を言おうとしているのか、おれにはわかってしまった。「待って!」と叫んで、璃子の小さな口を塞ぐ。


「今度はおれから言う!」


 彼女にばかり言わせるのは、おれのプライドが許さない。おれも璃子と同じように正座をすると、ぴんと背筋を伸ばした。華奢な両肩を掴んで、彼女の黒い瞳をまっすぐに見つめる。


「……り、璃子のことが好きです。おれと、つ、付き合ってください」


 夢の中で何度も繰り返した言葉のはずなのに、緊張のあまり声が裏返ってしまった。頬を薔薇色に紅潮させた璃子は、花が咲くような笑顔を浮かべて、「はい!」と頷く。


「私もハルくんのこと、大好き」

「いや、おれの方が好き」

「ううん、絶対私の方が……って、このやりとり、前もしたやんね」


 くすくすと愉快そうに笑い声をたてた璃子の腕を引くと、華奢な身体は何の抵抗もなく胸に飛び込んできた。潤んだ瞳でこちらを見上げた彼女の頤を持ち上げて、そっと唇を重ねる。

 今度は、突き飛ばされたりしなかった。

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